論語読みの論語知らず【第96回】 「之に居りて倦むこと無く、之を行なうに忠を以てす」
11月10日より全国の書店で拙著『戦略思想史入門-孫子からリデルハートまで』(西田陽一・ちくま新書)を発売させていただく。先ほど編集長が見本を持ってきてくれ、順調に印刷が進んでいるとの知らせに御礼を申し上げた。目の前にあるのは1冊の本だが、書き上げるにあたってはその100倍の書籍や資料を読み込み、机の前でじっくりと考えながら原稿に静かに向き合うことになった。私自身が本を書くようになった経緯は運命の不思議としか言いようがないが、日々の意識としては「僭越ながら書かせてもらっている」といったものだ。
今回の拙著では、古代・東洋の「孫子」、中世・欧州の「マキャベリ」、19世紀の「ジョミニ」と「クラウゼヴィッツ」、海軍戦略の「マハン」、20世紀の「リデルハート」といった6人を取り上げている。彼らが残した戦略思想に一から向き合いなおし、限られた紙幅のなかにそのエッセンスを反映させるべく努めた。最終章においては、古代の甲冑姿の孫子(孫武)、フィレンツェ市庁の官服を着たマキャベリ、軍服姿のジョミニ、クラウゼヴィッツ、マハン、英国製スーツで身を包んだリデルハート、この6人を全員再登場させて「円卓会議」を催し、質問を投げかけて回答してもらっている。それは、すでにこの世にいない物言わぬ彼らが残した記録から、このような回答をするだろうと思うところを再現する形になった。これによって彼らの戦略思想の共通点と相違点を浮き彫りにするべくトライした。
実のところ6人が残した記録は、その叙述スタイルがみな大きく異なる。それは何の目的で書かれたのか理由がそれぞれ違うことによるもので、たとえば、王侯貴族に向けた兵法指南書、就職とポスト獲得を意識した書き物、誰でも理解し得るためのマニュアル、後世に長く残るための哲学的書物、大学で講義するために準備したノートが大元のもの、商業出版物として書かれた本・・・などに分類されるのだ。彼らが生きた同時代の人間に理解され受け入れてもらうために、苦心惨憺と自己保身をある程度意識せざるを得ない者から、そのようなことは期待せず、むしろ後世の評価に耐えられるものを書きあげようとする者など、執筆に向けた態度が異なり、彼らの本音とするところは何であるかを見極めるのは大変な作業となった。出来上がったものがどのくらいのクオリティーなのかは自分自身が判断するものでもないので、その評価は読んでくださる読者諸氏に委ねたいと思っている。
さて、今回この本を書き上げた動機の一つは、「戦略」といった言葉が日本国内で十分に市民権を得て、あらゆる領域で使われるようになった反面、本来の戦いの要素が欠落した「戦略」があまりに幅を利かせることにいささか思うところがあるからだ。本来、「戦略」はどれほど優しそうな風貌を装っても、一皮むけば厳しい相貌がむき出しで立ち現れてくる性質のものだ。それを十分に我々が了解していれば良いのだが、長き貴き平和のなかで忘却の彼方へと追いやってしまったような気がするのだ。日本を取り巻く環境も厳しくなる昨今、今一度、歴史のなかの不幸で不断な営みである戦争から生まれてきた戦略思想の流れを知っておくことが大切だと思っている。なお、戦略思想というからにはその上位概念に含まれる政治と軍事の関係についても一つの焦点とした。著者としては6人それぞれに対して可能なかぎり誠実に向き合ったつもりだ。これ以降も引き続き執筆はさせて頂けるようなので今後もしっかりと努力を続けたい。なお、拙著が出来上がるまで様々な人から助言と支援を頂いたことに厚く御礼を申し上げたい。
「子張 政を問う。子曰く、之に居りて倦(う)むこと無く、之を行なうに忠を以てす、と」(顔淵篇12-14)
【現代語訳】
子張が政治とは何かと質問した。老先生はこう教えられた。「その官職に就いていて倦怠(していいかげんに)することがなく、仕事をするときはまごころを尽くすことだ」と(加地伸行訳)
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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