「孫子」第12回 第2章 「目的論」(3)

第3節 行動目的


次に行動自体が追求する「行動目的」について触れたい。


「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」(謀攻篇)


この一文は2つに区分して考えられる。1つは後半の「敵兵を屈服させること」、もう1つは前半の「百戦百勝」、要するに「戦いに勝つこと」である。クラウゼヴィッツなどは先に別の個所で触れたが「相手に我が意志を強要することが目的である」としながら、「ところでこの目的を達成するためには、まず敵の防御を完全に無力ならしめねばならない」として、「政治目的」の達成と「戦いに勝利」をダイレクトに結びつけている。他方で「孫子」は、「敵兵を屈服させること」と「戦いに勝つこと」を二段階に区分している。


確かに「戦いに勝つこと」になれば、敵は屈服するしかないので、我の「政治目的」を受け入れさせる態勢が整ったことになる。ただ、「孫子」の「行動目的」は、敵が屈服することにより、我の「政治目的」を受け入れればよいのであって、必ずしも「戦いに勝つ」ことが必須という考えではなかった。ここから、「不戦」(戦わず)による「屈敵」と、「不戦」が難しければ「用戦」(戦いを用いる)による「屈敵」と区分させた。なお、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり」とは、「百戦百勝」を否定したという意味ではなく、「不戦屈敵」の次善として位置づけているものだ。いうまでもなく、武力によって戦う以上は、百戦すればすべて勝つための創意工夫と努力が求められる。


「不戦」「用戦」のいずれにせよ「行動目的」の第1義的なものは「屈敵」であり、第2義的なものは「戦勝」となる。なお、この「屈敵」には積極的・消極的の両方がある。先の政治目的で触れた国家の「繁栄」に関する第2義的政治目的、これの最初の2つ「利・得」であった。そのための戦争の行動目的は、積極的な攻勢などの意志が発動する性質を持ち、敵の意志を屈服させることになる。もう1つの「危」といった自国の繁栄が切り取られるリスクとそれを排するための行動目的は、敵が持つ積極的な侵略意志を放棄や断念させるためであり、これは消極的な「屈敵」となる。


「故に、上兵は謀を伐つ、其の次は交を伐つ、其の次は兵を伐つ、其の下は城を攻む」(謀攻篇)
(訳:だから上策は敵の侵略又は抵抗の策謀を、その策謀の段階で破砕することである。次は、敵の同盟関係を遮断して孤立させることである。この二策によって敵は戦わずに屈服せざるを得なくなる。次は用戦の段階での上策は、敵野戦軍を撃破することである。最下策は敵城を攻略することである)


「孫子」はこの文のように「用戦」にも、そのターゲットを野戦軍の撃破と、都市などの攻城にわけて整理した上で前者に価値を置いた。これは少し概念を拡げれば「軍事力の打倒」と「地域の占領」といったものに置き換えられる。「軍事力の打倒」は敵の主力と衝突することで、多くの損耗が見込まれる「事業」となるが、これに成功すれば敵には抵抗する手段が消滅する。そうなれば、「地域の占領」など我の意志を強要することは容易となる。他方で、当初、敵の軍事力がない場所などであれば、「軍事力の打倒」をせずとも土地の占領自体は難しくはない。ただ、敵の軍事力が別の場所に健在である以上は、当然ながら奪回に向けて敵が攻勢をかけてくることが見込まれる。その場合は味方が占領した地域を確保し続けるのは簡単ではなく、「孫子」としては用戦の際は、敵を「屈敵」させるべく「軍事力の打倒」に重きを置いた。


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(本文は河野収氏『竹簡孫子入門』の要約を基本とし、読み下し文・訳文はオリジナルから引用しておりますが、それ以外の本文は全て新たに書き換えております。また、必要に応じて加筆修正、構造の組み換え、今日適切と思われる用語への変換を行っております。原著『竹簡孫子入門』のコピーとは異なります。)


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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