論語読みの論語知らず【第85回】 「吾 十有五にして学に志す」

何回目のお伊勢参りのときかは覚えていないが、そのときはじめて途中の松阪駅に降り立った。松阪牛を堪能するためではなく、国学者本居宣長記念館を訪れるためだった。戦前の小学国語の教科書には「松阪の一夜」が載っており、三十半ばの本居宣長が六十後半になった賀茂真淵に対面して古事記研究の志を告げると、大いにそれを激励してくれて、宣長は覚悟と希望を持って夜更けに自宅に戻る逸話だ。なお、このとき宣長はお伊勢参りからの帰路の途中にあった賀茂真淵に紹介状なしでお目通りを願っている。(昔はそれなりの人に会うには紹介状が必要とされた) 


「夏の夜はふけやすい。家々の戸は、もう皆とざされてゐる。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町筋を我が家へ向つた」(佐佐木信綱「松坂の一夜」)


そこから三十五年が経ち、宣長が「古事記伝」四十四巻を書き終えたときには六十九歳になっている。この「古事記伝」は大変な代物で、ある意味では日本史を大きく変えたものであり、そして、現代において真っ向から読むには国学の知識と別に強い信念と誠実さが求められると思う。宣長は医者といった生業を持ち家族を養うための収入を確保しながら、この研究に勤しんだ。私は宣長の知的体力が若いころにどのようにして培われたのかに興味がありその足跡を知るべく記念館を訪れたのだ。そこには宣長が研究に勤しんだ旧宅が保存されており、自筆の日記など1万6千におよぶ資料が収蔵されている。商人の子供として松阪に生を受けた宣長が勉強を始めたのは八歳で内容はいまの小学校程度の教育からのスタートであり、このこと自体は普通だが読書を好む子供だったという。十一歳で父親を亡くすなど家庭環境は変わるなかで、十二歳のときには『大学』『中庸』『論語』などの儒教の基礎を学びはじめた。


十五歳を迎えたあたりからその賢さを伝える逸話が出てくる。当時、松阪のあるお寺で連日連夜にわたって僧侶が赤穂浪士の話を聴衆にしている。このとき宣長はその話のほとんどを記憶して、自宅に戻り次第に巻紙に小さな字で復元している。粗筋をまとめた程度かと思いきや、赤穂浪士が討ち入りの際に隣の屋敷からはミカンが塀越しに投げ込まれて、浪士たちはそれを食べて喉を潤して戦ったなどの詳細なことまで書き込まれているのだ。もっとも全てを記憶したわけではなく覚えきれなかった固有名詞などは「ワスレ也」と素直に書き込んでいる。


『論語』などの教養に触れた十五歳の宣長は、中国の歴史を理解しようと歴代の皇帝の系図を作成しているが、これが小さな文字で書き上げても長い代物になった。そして易姓革命が起きて旧王朝と新王朝の間に断絶していることを示す赤い線を入れている。他方で、今度は日本の政治制度に基づいて同じようなものを書いている。これまた十メートルを超える代物になったが、ここで宣長は藤原氏や平氏源氏と政治権力の所在する実体に変化はあるも、皇室を中心とする制度が変わらないこと、断絶していない伝統を深く確信することになる。この歳して受動よりも能動を好む知性の持主だった宣長は、十六歳で一度「商い」の修行で江戸に出されて一年で戻り、その後二年半を自宅の部屋で今風に言えば引きこもりをしている。(当時こうした「商い」の修行は7~10年くらいが普通) もっとも引きこもりといっても無為に過ごすのではなく、今度は縦1.2メートル、横2メートルになる日本地図(「大日本天下四海画図」)を色々な資料をもとに作成し、地名など3千以上を書き込んでいるのだ。


これを俯瞰して日本とは何かといったことに今度は思いを深くしたのだろう。二十代になり後に京都の医師になるための修行に出て、そこで世間から忘れ去られていた「古事記」と触れ合う宣長だが、それよりも以前に自らの知性を積極的に開発しているのだ。七十二歳で亡くなる宣長は生前1万首に及ぶ歌を詠み、「古事記」を本格的に研究するよりも前は「源氏物語」に深い愛情をもちその講釈を周りの人たちに行っている。なお、宣長は面白いことをいっている。仮に孔子が「源氏物語」を読んでいたら、「もののあはれ」に感動して「詩経」に代わって「源氏物語」が「経」として扱われただろうし、そうなると後世では六経(りくけい)は「易経、書経、礼記、春秋、楽経、源氏物語」となっていたはずだ、と。


さて、宣長は儒教を強く批判したことはよく知られている。そうなるとその大元でもある孔子はどう評価されるのかと思うが、宣長は孔子のことを「よき人」と歌って一首残しているのだ。この一言で十分な賛辞な気がする。宣長の少年時代の歩みを思い、その学問に志す姿を知って、論語のあまりに有名な一文を思い起こした。なお、宣長の一生には誠という文字が一つ付いて回ると私は思っている。


「子曰く、吾 十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰えず」(為政篇2-4)


【現代語訳】

老先生最晩年の回想。私は十五歳になったとき、学事に心が向かうようになった。三十歳に至って独りで立つことができた。やがて四十歳のとき、自信が揺るがず、もう惑うことがなくなった。五十歳を迎えたとき、天が私に与えた使命を自覚して奮闘することとなった。(その後、苦難の道を歩んだ経験からか、)六十歳ともなると、他人のことばを聞くとその細かい気持ちまで分かるようになった。そして、七十のこの歳、自分のこころの求めるままに行動しても、規定・規範からはずれるというようなことがなくなった


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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