論語読みの論語知らず【第86回】 「学びて厭わず、人に誨えて倦まず」

マイケル・サンデル教授の新刊本「実力も運のうち 能力主義は正義か?」(早川書房)をつい最近購入して読み始めた。世界的に売れた前著「これからの正義の話をしよう」の日本語訳が販売されたのが2010年で、同時期には「ハーバード白熱教室」と銘を打ちテレビの教養番組にもなったが、そこから11年の歳月が流れた。実のところまだ読了しておらず、半分弱を読んだに過ぎないのだが、前著との明らかな違いがありそこにサンデル教授の静かな決意のひとつを感じている。教授の専門は「政治哲学」で、「これからの正義の話をしよう」はその範疇で書かれており、ハーバードでの講義を軸にしたこの本は、読み手にじっくりと考えさせるための工夫が多くほどこされていた。ベンサム、ミル、アリストテレス、ロールズ、カントなどの歴史上有名な哲学者を引き合いに出して、読み手の価値観を揺らしていくスタイルは、真剣に読む者にとっては何かしらの糧を多く与えてくれる本だと思っている。


今回の本は「能力主義」をどう考えるべきかを中心に展開していく。社会の中において自らの能力を努力で開花させて成功したものは、「市場」において最大限称賛されるべきで、その報酬も独り勝ちするのが当然という考えの是非を論及していく。まだ、途中なのでこの議論がどう展開していくは私自身が楽しみなのであるが、前著との違いはこの問題を追及していくなかでキリスト教の神学に入り込んだところだ。少なくとも前著では神学の内容に不必要に介入せずに、哲学の範疇で議論していたのが、今回は第2章で真正面から挑んでいるのだ。


「自分の運命は自分の能力や功績(メリット)の反映だという考え方は、西洋文化の道徳的直観に深く根付いている。聖書神学は、自然の出来事には何らかの理由があると教える。好天や豊作は善行に対する神からのご褒美だし、旱魃や疫病は罪を犯した罰なのだ。船が嵐の海に出くわせば、人びとは乗組員のうちの誰が神を怒らせたのかと問う。科学時代である現代から見ると、こうした考え方は素朴、あるいは幼稚だとすら思えるかもしれない。だが、それは当初思えるほど時代遅れとは言えない。それどころか、こうした物の見方は能力主義的な考え方の起源なのだ」(第2章 「偉大なのは善良だから」―能力の道徳の簡単な歴史)


サンデル教授はこの後で人間が善を積めば褒美を、悪をなせば罰を与える神といったものを浮かび上がらせて、人はそれぞれの功績に応じて、それに値するものを受け取る能力主義を肯定する原型を引き出している。他方でその直後には、公正で高潔な人物であるヨブが、天上において神がサタンとヨブの信仰の強さめぐる賭けの対象にされて、あらゆる苦難を与えられる「ヨブ記」を取り出して能力主義を否定する論理も引き出している。


「ヨブが家族の死を嘆き悲しんでいると、彼の友人たちが(友人と呼べればの話だが)、彼はとんでもない罪を犯したに違いないと断じ、その罪がどんなものかを想像してみるようヨブに迫る。これこそ、能力の専制の初期の事例である。・・・ヨブは能力の神学を仲間と共有しているせいで、高潔な人間である自分がなぜ苦しめられているのかと神に向かって叫ぶ。とうとう神はヨブに語りかけると、犠牲者を非難する残酷な論理をはねつける。ヨブと仲間たちが共有している能力主義的想定を否定するのだ。この世で起こるあらゆることが人間の行為に対する報いや罰であるわけではないと、神はつむじ風の中から語る。・・・ここに見られるのは、『創世記』や『出エジプト記』を特徴づける能力の神学からの徹底的な逸脱だ」(同)


読み手を揺らすサンデル教授の手法は変っていないが(注意深く読まなければならないが)、今回、キリスト教の神学へと踏み込んだのは何故なのだろう。勝手な想像だがこうしたところから掘り起こして社会に問わねばとの危機感の顕れだと個人的には思っている。たった10年で大きく変わってしまったアメリカに、哲学者として今こそ動かねばならないとの決意が、神学の問題を取り上げさせたのではないだろうか。聖書の一語一句全てをそのまま信ずる人が多数おり、同時に様々に都合よく解釈された「神学」が乱立するアメリカでこの真正面からの挑戦は大変な覚悟が必要だと思う。サンデル教授はあと2年で古希を迎えるが、公のために大きな一戦に挑んでいるように感じる。そういえば、中世のトマス・アクィナスという神学者は神学から哲学へとアプローチして両者の融合をはかった。サンデル教授は残された時間でどのようなアプローチをみせてくれるのかしっかりとみていたい。


「子曰く、黙して之を識(しる)し、学びて厭(いと)わず、人に誨(おし)えて倦(う)まず。何か我に有らんや」(述而篇7-2)


【現代語訳】

老先生の教え。(理解したことを)黙って心に刻んで記憶し、学んで厭きるということがなく、人に教えて倦むこともない。それらは、(他人と異なり)この私において問題はない。(これ以外、私に何があるだろうか。)(加地伸行訳)


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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