論語読みの論語知らず【第88回】 「信じて古を好む」

朝の食卓では父親が出勤前にコーヒーを飲みながら静かに新聞を読む。子供の頃の我が家の情景を思い出そうとすると脳裏に浮かぶワンシーンだ。父親が新聞をどのように読んでいたかはわからないが、大人になると新聞を読むものなのだと子供心に刷り込まれた。当時の父親の年齢をこえた私もコーヒーを飲みながら新聞を静かに読む習慣はあるが、それほど素直な目の通し方はしていない。記事を読み進めながらも、意識は間違い探しをするかのように、どこに違和感を覚えるかといったものを大切にしている。


経済紙と呼ばれる新聞などは情報量、数字やデータなども一般紙に比べて多く、有識者のコメントなどもバランスをとるように一定の配慮はされている。経済動向やデータの概略をブラッシュアップしていくためにも継続して読む価値はある。ただ、それぞれの記事の行間には経済紙としての価値判断や論調、方向性が当然ながら含まれてくる。公正中立などは不可能であるからこのこと自体について云々いうつもりはないのだが、経済問題については社会事件のように簡単に倫理的な「善悪」の構図をつかみやすいわけではなく、だからこそ読む側のスタンスが問われる。経営者と株主、市場と国家、経済安全保障とグローバリゼーション、これらを対立や協調の構造で捉えながら意見は様々で百家争鳴のようにみえる。この中にあって最先端の情報をひたすらに追いかけて、毎日真面目に経済紙を丁寧に読み、新刊で次々と刊行される経済関係の本を読みまくれば、現下の問題に通暁して価値判断をできるのかといえば正直そう思ってはいない。


20年以上前だが大学では経済学部に籍をおいていた。当時はスマートで数学にも長けていた学生は金融工学などを学び、優秀な者たちは金融機関などに就職していく時代だった。当時、経済学部で人気がなかった講義といえば経済学説史(経済思想史)が筆頭だったように思う。そこでは学校の教科書の中では登場するが、経済紙ではまず出番がもらえないアダム・スミスにはじまり、ディヴィッド・リカード、J・S・ミル、マーシャル、ケインズなどの経済学説(経済思想)を学ぶことになる。古臭いといえば古臭いし、これらの思想をどれほど学んでもメイクマネーに直接結びつくことはなく、投資家としての腕があがるわけでもない。


ただ、私個人としては学ぶ価値はあると思っている。たとえば、アダム・スミスなどは、その名は「見えざる手」で紐づけられ、自由競争市場を肯定した大元として時折名前があがるが、少しかじるとスミスが自由競争の前提として人間をどのような存在として捉えていたかが浮かび来る。前に読書録のブログでも取り上げたアダム・スミスの「道徳感情論」では、人間は道徳や公正に対する感覚を持つものとしている(もっともスミスはそれが生まれながらではなくて、社会の中で後天的に「共感」を重ねて養われていくものとした)。 ようは自分の金儲けばかりを考える完全利己的人間のようなものは想定しておらず、経営者、株主、資本家、働き手などが、それぞれの持ち場で利益(利子や地代を含む)を追求したとしても、フェアプレイの意識と他者に共感して思いやる感覚が担保される以上は、基本的には社会全体は良い形で富裕化していくとしている。(スミスは結果的に貧富の格差が起きること自体は否定しないが、他方で利子などを無制限の如く認めるのは是としない) 


スミスが生きたのはまだガチガチの資本主義時代ではなくどこか牧歌的な香りを残していたが、19世紀になると工業化とともに弱肉強食の論理が持ち込まれて、働き手は長時間低賃金労働が日常風景となった。すると、今度はJ・S・ミルが登場して資本主義のあるべき姿として資本家(経営者)が働き手に対してフェアな富の分配を担うべきと語り、それをその主著「経済学原理」のなかで主張した。その後もマーシャルやケインズなどもそれぞれの時代の経済問題を捉えて見解を提示し社会に問いただしていくのだ。


こうした経済思想の歴史をなんとなくでも意識しつつ毎日の習慣で経済紙に目を通している。もちろん、古臭い経済思想は、具体的な当面の政策にはダイレクトに結びつくことはないが、そもそも経済が何からスタートしてどこへ向かっていくべきなのかを考える材料は提供してくれる。そして、煙に巻くかのような複雑な経済論争や政策論のなかで故意か過失かは知らないが、ときにそこで忘れられている論点や要素を思い出させてくれるのもこうした古臭い経済思想からの歩みだと思っている。もっともスミスの「道徳感情論」などが読みやすいとは思ってもいないし、新聞のように流し読みができる代物ではない。だから、こうした古臭いものを巧みに語ることのできるエコノミストがもっといても良いとは思うのだ。


「子曰く、述べて作らず、信じて古を好む。窃(ひそ)かに我を老彭(ろうほう)に比(なぞら)う」(述而篇7-1)


【現代語訳】 

老先生の教え。私は(古典・古制・古道を)祖述しはするが創作はしない。(先王を)信じ古典・古制・古道を好む。ひそかに(他人と異なり)この私を心の中で、(同じくそのようにしたと伝えられる)老彭になぞらえている(加地伸行訳)

老彭=殷時代の賢人


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

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