温故知新~今も昔も変わりなく~【第82回】 渡辺浩『日本政治思想史(十七~十九世紀)』(東京大学出版会,2010年)

日本の近世とはどのような時代であったかを、一般向けに分かりやすく書かれたものはそれほど多くないとある人から聞いた。戦国時代や江戸幕末は人気があり、この時代にスポットを当てた小説、ドラマ、映画などは多いが、泰平の世であった江戸時代となるとたしかに限られてくる。時代劇や落語などを通じて、お江戸の文化や習俗がどのようなものだったかのイメージはまだ掴みやすい。ただ、徳川の天下でどのような政(まつりごと)が行われ、それを支える思想や制度はどうであったかなど、少しばかり硬いテーマとなると、儒学、武家諸法度、参勤交代、幕府、大名、などの単語を羅列はできても、それがどのような繋がりをもって運営されていたかを明確にイメージして語るのは容易なことではない。


なお、「幕府」という用語は、幕末ものでは多用されるが、近世では基本は使われず、徳川将軍本人は「上様」「公方様」、そして幕府(政府)は「御公儀」と呼ばれるのが普通であった。ここで使われる「公」の文字は、今日一般的に意味する「公共」を指すものではなく、この「公」(おほやけ=大きな家)とは、内なるものに対して、それを外から包むより大なるものを意味した。たとえば、ある武士がさる大名家にお仕えしているならば、大名家が「おほやけ」となる。大名家が将軍家に従えば、後者が「おほやけ」となりこうした入れ子構造の延長に「御公儀」といったものが存在するが、「公」が天下万民を包摂する意味合いではなかった。こうした少しばかり専門的なことや、江戸時代において政治と思想の関係がどのようであったかを広くわかりやすく書いた本に『日本政治思想史(十七~十九世紀)』(渡辺浩・東京大学出版会)がある。ハードカバーではあるが、特に専門知識がなくとも十分に読ませてもらえる(書き手の技量が優れている)。


この本の一つのテーマは、徳川将軍家という権力装置が儒学といった政治思想をいかに使ってきたか、向き合ってきたかでもあり、その多様なあり方を知るだけでも十分に面白いものだ。通読していくと、江戸時代の政治と思想の関係性や距離感といったことも見えてくるし、この延長に現代をみつめる材料が随分と隠されているとも思うのだ。よく知られているように、日本は中国から様々な文物や制度を輸入したが、それらのなかで採用しなかったものに「科挙」の制度がある。中国では高級官僚になるためには「科挙」に合格することが求められ、そのために受験生は儒学をはじめ古典を徹底的に暗記することになったが、これにパスすることは至難であった。この「科挙」の存在によって儒学は政治を担う者の「共通言語」になり圧倒的な権威となったが、日本は果たしてどうであったか。結論からいうと江戸時代に儒学を真剣にやる者で、その権威を確立し得た人物は限られているのだ(なお、戦国時代の武士などの大半は儒学などを真剣に学んでいない)。


学校の日本史教科書あたりだと、権力に近かった儒者として林大学頭、荻生徂徠、新井白石などを覚えさせられたものだが、実のところそれはマイノリティであり、多くの儒者は社会的には弱い存在だった。どれほど真剣に学んでも、「科挙」に類するものがないので立身出世の保証はなく、儒者の数などは江戸時代の初期には極めて限られていた。出世の手段にならないとすれば、これを学びたいと思う者の動機は、茶の湯、立花、書道、謡、和歌、俳句などの「芸事」などと同列視して一つ嗜みや教養として学ぶ者から、真剣に道を求めて学ぶ者まで様々であった。


中国では宋の時代の朱熹に端を発する「朱子学」が、後の中国では正統とされ「科挙」に取り入れられた反面、それゆえに学問的な自由の雰囲気は失われたが、日本では実際のところ儒学はかなり自由な解釈が許されていた。特に権力からの距離がある儒者たちは真摯かつ自由に儒学に向き合ったことで独自の解釈が生まれることになった。伊藤仁斎・東涯などはその典型であり、「朱子学」の「格物致知」など煩瑣な教理から離れて、もっと素朴にわかりやすい市中のなかの「思いやり」(仁)を軸として儒学を展開している。ただ、出世とは関係のないところで学問の自由が比較的許容されはしたが、市井に生きる儒者たち、町儒者たちの生活は厳しいものだったという。


「儒学教授を職業として生きる儒者は、大きく分けて二種類の社会的存在形態をとる。「町儒者」と「御儒者」である。医者の町医者と御典医という類型と同じである。町儒者は、町で(大抵は自宅である)塾を開き、授業料で生活する。宝永三年(1706)に江戸の芝で塾を開いたある儒者は、数十人の弟子で「衣食粗ぼ足」りたという。しかし、「医者寒からず、儒者寒し」という諺のように、生活は苦しいのが相場である。町儒者で食べていけるほどの弟子も取れず、旅をして町や村を廻り、余裕のありそうな家を訪れて、講釈などをさせてもらうという厳しい生活を送る人もいた。辻講釈師に近い暮らしである。天明八年(1788)、伊勢国を旅していた司馬江漢は、紹介状を持って立ち寄ろうとした家の入り口に、「儒者・学者、虚名の者、並に物もらい不可入(いるべからず)」と書いているのを見たという。・・・」(『日本政治思想史』第五章より)


なるほど町儒者として生きていくのは大変であるが、それでもなお儒学で立って生きていこうとする者のなかに、儒学を信じての真実一路もあったのだろう。ところで、権力に近い「御儒者」はどうであったのだろう。以前にこのブログで赤穂浪士(赤穂義士)のことを取り上げたが、吉良邸に討ち入った赤穂浪士の助命を認めるか、それとも切腹させるかで御公儀は「御儒者」を招いて大論争をしたとされる(『忠臣蔵』などでも名シーンになっている)。


林鳳岡(大学)と荻生徂徠の二人の儒者で、前者は、赤穂浪士の「義」を評価して儒学にもとづき助命するべきとすれば、荻生徂徠はあくまでも「法」をもって処分するべきであり、「切腹」させるのが当然だとした。他方で徂徠は赤穂浪士たちが、長く生きた結果生き恥を晒すような者も出てくるだろし、いま切腹させて散り花を咲かせるのが情けなのだといった主旨のこともいったとされる(所説あり)。この荻生徂徠は徳川の治世においてもっとも有名な儒者であり、儒学に独自の解釈を行い後に「徂徠学」とも呼ばれるまでになる。徂徠の政治思想は現代からみるとなかなか苛烈なことをいっており、徳川吉宗などに「聖人の道」を説き、「国家ノ治メハ、医者ノ療治ノ如シ」として政策提言をしている。その考え方は「法ヲ立直スニ如(シク)は無シ」を根本とするが、結局のところ吉宗はこれを聞くも受けいれるところとはならなかった。権力と政治思想の距離が独特なのが日本史の特徴だとも思っている。権力装置はそれを秩序維持のための一定の手段としては使うが、信奉するのとはまた異なる態度をもとるのだ。政治思想に対して淡泊でいられることで実際的に進みゆくことができる反面、それが行き過ぎると外の世界(海外)では政治思想の違いから命がけの闘争に発展するこの意味合いを理解できなくもなる。それは一つのリスクと陥穽であり、現代においても意味を持っている。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

0コメント

  • 1000 / 1000