温故知新~今も昔も変わりなく~【第88回】 堀米庸三『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』(中公文庫,2013年)

現在進行形で起きている物事の実態をつかむのは、情報へのアクセスが一昔前に比べて随分と増した昨今において容易なことのように思えてくる。市井で生きている限り、かつて新聞やテレビで知るだけであった事案も、ネットを積極的に使えばリアルタイムで探りゆくことも可能だ。一方でよくいわれていることであるが、リサーチ・検索の仕方次第では偏った情報ばかりにアクセスを重ね、次第に「洗脳」されてしまうリスクがある。ときに過激な思想に染まり行動へ走る人の原因の一つだとの意見もあるが、事態はそれほどシンプルではないようだ。先日、ニューズウィーク誌(1月25日号)でシカゴ大学政治学部教授ロバート・ペープ氏の「議事堂を襲った普通の人々」というレポートを読んだ。


それによるとアメリカにおいて過激思想といったものは社会の片隅から出てくると一般的に思われていたが、現在では状況が異なっているという。昨年1月6日にワシントンで起きた連邦議事堂襲撃などに象徴される「反乱思想」は、もはや政治的少数派とはいえず多くの主流派市民が抱いている。シカゴ大学が中心になったサンプル調査からの推定によると2100万人が二つの過激思想を信じている。その一つがバイデン大統領は不法に選出されたとの考えで、もう一つはトランプ前大統領を復帰させるために武力を用いるのも正当化されるとしたものだ。推定される2100万人のうち4割は主たる情報源を特定の保守派メディアに頼っている。ただ、このうち3割はCNNなどの主流派メディアにもアクセスしている。つまりは、多くの「反乱思想」の持ち主たちは主流派メディアにも触れているが、その政治的信条を保っているのだとレポートしていた。


この問題は、アメリカの分断、民主主義の危機などといった言葉が用いられて、よく日本でも報じられるようになった。これから先のことについて、太平洋を隔てた日本でもアメリカ政治の専門家、学者、ジャーナリストなどがレポートしており、これらを読むことである程度の状況を知ることもできるし、そうした知的な積み重ねはもちろん大切だ。アクセスできる情報の分量は増えており、望めばそれらに浸ることはできる。ただし、これらは千差万別にみえて同工異曲も数多であり、その上で誰でも発信できるネットとなれば玉石混交となり、果たしてこれらを通して全貌を掴むことは可能なのだろうか。おそらくそれは至難であり、確実なことは何一ついうことはできないとも思う。今を生きる人々が個のレベルでもってこの問題について情報をどれほど集めたところで、知り得ることの限界にもっと謙虚であるべきなのかもしれない。


情報過多のなかで感情に流されてポイントを見失う事態を回避するために、情報の洪水に浸るより以前に月並みな言い方になるが常識を持つのが肝要なのだと思う。現在進行形の問題について情報の量だけは延々と複製されて足し算をされていくが、過去に起きた問題についての情報はそうはならず、全貌から引き算され限られた量の情報だけがもたらされる。常識を養う一つの手段は歴史を学ぶことであり、引き算された限られた情報で物をじっくりと考えることがその良きトレーニングになる。特に、自分が属している文化、環境、時代からはかけ離れ、具体的な想像が難しい物事について、限られた情報のもとで自分の知力を駆使して、どうにか因果関係、相関関係をつかみ取る作業なども時に有効なのだ。目を瞑っても具体的なイメージが湧かなければ、面倒で抽象的な思考を重ねて自分の頭でポイントを整理していくことになるが、情報端末に頼らずにとことん考え抜く習慣も時には必要だと思う。


随分と前置きが長くなったが、『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』(中公文庫)という本がある。東京大学教授であった堀米庸三氏が書かれた本であり、この本の裏表紙には「キリスト教の歴史にたえずついてまわる正統と異端の激烈な争いは、宗教と政治の不可避的な相反と結合の関係から生まれた。キリスト教会をめぐる異端抗争を解明し、ヨーロッパ人の精神的形成に大きな影響を与えた宗教と政治の緊張関係を再現する、西洋中世史学の名著」と紹介文が記されている。ヨーロッパ中世史、特にキリスト教の教義、法王と皇帝の間の権力闘争、宗教運動の発生、教会内の保守派と急進派の対立など、複雑に入り組んだカトリック教会の歴史を、秘蹟(サクラメント)の「洗礼」、司祭・聖職者を任命する「叙品」などを一つの軸にして解き明かしてく本である。日本の戦国時代に比べればヨーロッパ中世史に馴染み深い読者は限られ、キリスト教の秘蹟(サクラメント)を巡る信仰上の大問題も、多くの読み手にとっては感情を揺さぶられる問題にはならない。端的にいえば他人事として冷静に読み進められるのだ。なお、堀米氏はこの本は64年に出版し75年に逝去している。本書の前書きは「ヨーロッパ中世史を生涯の専門に選んだほどの人ならば、だれしも一度は、そこにみられる宗教と政治の深刻な対立、複雑な葛藤に心を奪われずにはいられなかったにちがいない。いまから三十年前、わたくしが中世史の研究に志したときにも、これが一つの動機になっていた・・」との告白から始まっている。


同書の前半において、1210年、法王イノセント三世と聖フランシスの出会いのエピソードが描かれ、フランシスが使徒的清貧に沿った戒律の厳しい修道会の存立を願い、その旨をイノセント三世に訴えるところから始まる。それまでの長い歴史のなかで歴代の法王の立ち位置は、皇帝や領主などの世俗権力との関係において常に複雑であり、優勢劣勢のシーソーゲームを繰り返してきていた。ローマ帝国で迫害の対象であったキリスト教は、国教へと転じて以降、神学を強固に体系化してきた。それによって法王は権威の上で世俗権力を出し抜きながらも、生存のために武力を持つ世俗権力を頼まざるを得ないなかで、対立と妥協を常に迫られてきた。カトリック教会側からは、その懐柔の手段として王侯等俗人に聖職者任命権、俗人による任命(聖職売買)を認めた。これによって世俗権力を握る者たちが高位司祭などを兼ねて「聖職者」となり、妻帯も可として「聖職者妻帯」が生まれることになった。これによって法王と皇帝が並び立つ体制は担保こそされるが、他方の帰結として聖職者とはいえない腐敗者を多く生み出すことになり、教会内部でもこの葛藤と反動からときに苛烈な改革運動が起きている。


その代表的なのはイノセント三世より遡ること二世紀ほど前、法王グレゴリウス七世に始まるグレゴリウス改革である。聖職売買と聖職者妻帯こそが教会を貶める根本としてこれを壟断し、腐敗聖職者が行う秘蹟などは単に無効で有害そのものであり、人々はそれを受けてはいけないとした宣言が出された。こうした使徒的清貧主義と道徳的厳格主義に基づく宗教運動は長いキリスト教の歴史のなかで度々起きているが、急進的に勢力を強め、業火が燃え上がるような一時が過ぎると、また教会は保守化して清濁併せ呑む形への復元力も働いてきている。本書ではこうした腐敗聖職者による秘蹟・叙品の効果を信仰から認めない立場を「異端」、体制維持の必要から認める立場を「正統」として位置づけて、「異端」と「正統」で揺らぐキリスト教の歴史にアプローチしている。なお、今日、カトリック教会としては腐敗聖職者が行った叙品は有効か否かについての結論は、違法ではあるが有効(イリキタ セッド ヴァリダ)であるとしている。宗教行為として違法であるが有効といった文脈は不明瞭な感じだが、こうした辻褄をどうにか合わせて体制崩壊を防ぐための努力が、苛烈さを帯び「異端」と「正統」が対立する宗教運動の背後では行われてきた。


先の法王イノセント三世と聖フランシスの間でなされたごく限られた者たちが参加したクローズドの話し合いで、法王はフランシスの願いを聞き入れ戒律の厳しい修道会の存立を認めている。法王の近くに侍る枢機卿のなかには、フランシスの考えを危険として反対する者もいたが、法王はそれを許可したのには深い理由があった。フランシスの願いを拒絶してしまえば、それが先鋭化して過激な宗教運動に発展するよりも、体制内に組み込むことが安全だと考えたようで、法王はフランシスに次のような祝福を与えたという。


「兄弟たちよ、主とともに行け。そして主が汝らに霊感を与えられるよう、人々に悔悛の教えを説け。だが幸いにして主の恩寵を得て仲間を増し殖やした暁には、喜んでまたわたしのもとにくるがよい。そのときには今よりもたくさんのことを許し、かならずやもっと重大な任務を与えよう」(第一章)


イデオロギー、政治、宗教などが体制やシステムとして巨大化して強固になるほどに、どこかで分断や危機の可能性を孕むものが生じてくることも歴史の随意(まにま)だと考えてみる。分断や危機によって崩壊してしまうこともあるが、それはたいてい長い時間をかけた揺らぎのプロセスであり、分断や危機に対してそれを回避、修復するべく見えないところでは様々な辻褄合わせが反動的に起きているものだと歴史は教えている。個人的にはこれを常識として踏まえた上で、現在進行形の問題については情報量こそ多く集まるが、それらは大半が見えるところからの表層的なもので、深層にまで到達したものは結局のところ圧倒的少数なのだと弁えている。深層から情報は時を経て歴史になってから浮かび来ること数多だとも思っている。


さて、冒頭で言及したニューズウィーク誌には、シカゴ大学教授レポートとは別で、あるジャーナリストが書いた「2024年、アメリカ内戦突入のシナリオ」と銘打った特集記事が大々的に扱われている。24年に予定される大統領選で、過激思想を信ずる人間たちが起こしうる武装蜂起のリスクを報じており、そのうちの一人が吐いた「もう内戦しかないぞ」といったセリフを締めに引用して筆を置いているものだ。インタビューが容易な人間へのアプローチ、アメリカに出回っている銃の数など集めやすい数字や情報をもとに書かれた記事は事象の一面ではあるが、この記事のなかで報じられていないことは何か、探り得ないことは何かと弁え、常識でもって割り引いておくことも大切な気がするのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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