温故知新~今も昔も変わりなく~【第89回】 ウィリアムソン・マーレー他編著『戦略の形成~支配者、国家、戦争』(ちくま学芸文庫,2019年)
「昨日の友は今日の敵」(昨日の敵は今日の友)は由来がはっきりしない古くからの俗諺だ。個人レベルでこうした生き方をするかしないかは信念、流儀、スタイルによって異なる。ただ、利害を複雑に抱えるのを常とする国家レベルに置き換え、時間軸をもう少し広げて考えてみるならば、この俗諺はかなり当てはまるだろう。互いに敵国として戦った国家が、その後同盟を組むこともあれば、他方で互いに同盟を組んで強敵を退けた後、それが瓦解して敵対に至るのは歴史上よくある。それぞれの時代の政治的・軍事指導者たちは、このことをよく知りつつも、同盟をどのくらい信頼できるのか、相手の意志と能力を見積もり決断する難しさに随分と呻吟してきた。
永久不変などありえず、油断するとすぐに不安定となり利害不一致からの機能不全、瓦解への道を歩む同盟といった代物を前にしながらも、それらを織り込んでバランスを取りながら自国の戦略を考えざるを得ないのが国際関係の常ともいえる。このことは戦略に常に付きまとう限界といったものをあきらかにしている。他方で見たくないものを無視するご都合主義の度が過ぎれば、自らの追求した戦略が万能だとの幻も見てしまう。完璧な戦略などないはずなのだが、このトラップや誘惑から逃れることはとても難しいようだ。
将来的にAIが完全な戦略を考えて、人間はそれに追随するだけの時代が来るかは知らないが、少なくとも今は不完全な人間が戦略を考えている。純粋な学問と異なり限られた時間のなかで解答を求められる戦略の形成にあって、効率性・生産性が求められるのは致し方ない。この環境において国家、企業、組織のいずれもが、優秀な頭脳に戦略の策定を委ね、そこから出てくる「戦略ペーパー」は非の打ち所がないくらいに体裁が整っているものだ。ただ、戦略が形成されるプロセスでどういった要素が捨象されてきたかについてはあまり明らかにならない。したがって、そうした代物を読む側の人間は、書かれていることに留意しつつ、書かれていないことについて、自分の良識と知性を頼りに考えて決断していく力が求められる。
戦略が形成されていくプロセス、実行されていくなかでの変遷において、どのような要素が影響を与えていくものなのか。このための知見を広く鍛えてくれる一冊として『戦略の形成~支配者、国家、戦争』(ウィリアムソン・マーレー他編著、石津朋之他監訳、歴史と戦争研究会訳・ちくま学芸文庫)を挙げたい。本書は複数の著者がそれぞれ書いた論文がもとになって構成されている。
「本書の各論文は、1985年から86年にかけてアメリカ海軍大学で行われた戦略と政策に関する多くの有識者の公式および非公式の議論から生まれたものである。この会議の参加者は、政治および軍事の指導者が外部からの課題に対応して戦略を策定し、その戦略を精緻化させてきた歴史を検証することが必要であるという認識で一致した。会議の参加者は、既存の研究が個々の戦略思想家の影響に焦点を絞りすぎていたり、特定の政治体だけに議論を限定していたりすると感じていた。しかしながら、いずれのアプローチも、支配者や国家の戦略の形成に実際に影響を及ぼしてきた様々な要因に対する知見を提供できなかった。その結果、「戦略」という捉えどころのない概念を真に理解するためには、戦略の形成について考えることが極めて重要であるという結論に達した」(同書第1章)
本書は全19章で構成され第1章「戦略について」の総論以降は、第2章「ペロポンネソス戦争におけるアテネの戦略」、第3章「戦士国家の戦略―ローマの対カルタゴ戦争」、第4章「14世紀から17世紀にかけての中国の戦略」、・・・第17章「イスラエルの戦略の進化」、第18章「核時代の戦略」・・といった章立てであり、上下巻合わせると1500ページ近い厚さとなる。戦略について安易に定義するのを避け、その形成の成り立ちの複雑さにスポットを当てて展開されている。もちろん、初めからじっくりと読み進めるのが良いが、時間が限られる場合は第1章より後は興味のある章をいくつか選んで読むだけでも学びはある。
一例を紹介すると第2章では、ペルシャ帝国からギリシャ世界への侵略を撃退するため戦場で共に戦ったアテナイとスパルタを取り上げている。その後、両雄がペロポネソス同盟とデロス同盟にわかれ勢力圏を持ち、互いが衝突して起きるペロポネソス戦争での戦略の形成を論じる。アテナイの政治的・軍事指導者の第一人者であったペリクレスの戦略は、戦場においてスパルタを撃破して敗北に追い込むよりも、アテナイと戦争を続けることは無益だとスパルタに認識させれば十分といったものであった。アテナイの世論とは異なる消極性を伴うものが戦略の核心にあったわけであり、後世の我々はそれを明確に理解しペリクレスと共有できるが、当時、アテナイの人々がそれを共有することは難しかった。本章では次のような戒めの一文が出てくる。
「戦略を成功裏に実行するためには、戦争目的を明確に理解し、敵・味方それぞれに利用可能な資源を正確に評価することが不可欠である。同じく、戦略を成功裏に実行するためには、敵の弱点に対して味方の長所を使用し、過去の経験を最大限に活かし、さらには物質的・心理的な環境の変化に上手く適応する必要がある。また、戦略を堅実に実行するためには、最初の計画が予想に反して効果を上げることができない場合のために、予め代替案を用意しておく必要がある。しかしながら、国家や政治家がこのような理想的なかたちで戦争を始めた事例はほとんどない」(同書第2章)
ペリクレスの意志と能力から編み出された戦略は完璧などではなく、実際は世論や予想外の出来事を前に影響と阻害を受け、その戦略の形成と実行は現実を前に変容していく。そして、ペリクレスがアテナイの経済規模から継戦できるであろうと合理的に考えていたとされる数年程度どころか、結果的には27年も続きアテナイは敗北して衰退することになった。
なお余談であるが、このあたりの歴史は作家の塩野七生氏が著された『ギリシャ人の物語』(新潮社)などでもスピーディな筆致で巧に描写されているので流れを知りたければ参考にしてもよいと思う。他方で、もし可能であればやはりツキティディスの『歴史』(ペロポネソス戦争史)を併せて読むのがより良いと思うのだ。読みやすさに配慮した本が一行で済ませてしまっていることに、ツキティディスなどはときに何十ページも費やして書いており、そこに戦略の核心に迫る要素もあるはずだ。なお、こうした読書は効率性・生産性は度外視してよいと思っている。
現在進行形の戦略を策定するには時間の制約があり効率性・生産性も求められる。これは致し方ないのだが、他方で出来上がった戦略の限界を弁えるための知性を育むには個人戦であり、効率性・生産性から離れた読書を積み重ねておくことが大切だとも思うのだ。そうした意味では、この1500ページ近い『戦略の形成』は大いに役に立ってくれるはずだ。
***
筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
0コメント