「孫子」第1回 「孫子」研究について

「孫子」に関する本はどのくらい出版されているのか厳密にはわからないが、専門家、好事家、作家、実務家、ライターなど様々な職種の人がこれまでに著作にしてきており、点数としてはかなりの数になる。アプローチや考証は多様であってよいと思うし、どれに共感を覚えるかもまた読み手の自由ではある。私自身は「孫子」の存在を知ったのは少年時代であり、そこから独学を基本としてきたが、その過程で多くの解説・研究書に触れてきた。中国古典を専門とする学者の論文・研究書や軍人・武人が自らの経験と知見を踏まえたものまで、多様なアプローチから多くを学ぶ機会に預かった。


日本の歴史のなかでも長く営まれてきた「孫子」の研究であるが、このなかで優れたものをいくつか挙げろと求められたならば、江戸時代ならば山鹿素行、近年だと河野収氏の「孫子」研究を挙げたいと思う。山鹿素行についてはまた別の機会があれば触れるとして、河野氏の研究内容に触れてみたいと思う。著書の短い略歴には「大正8年 愛媛県に生まれる。昭和14年 陸軍士官学校卒、防衛大学校教授、著書『地政学入門』等」と記載されている。もう少し補足すると、河野氏は陸軍士官学校を卒業したあと大東亜戦争を士官として戦い、戦後は陸上自衛隊に入り幹部学校副校長(陸将補)で退官された後、暫くしてから防衛大学校教授(戦史教官)となられた。「孫子」の研究は現役の頃から長らく積み重ねておられ、その実績は古い「防衛大学校紀要」(学術誌)などに掲載されている。また、一般向けの本として『竹簡孫子入門』(大学教育社・1982年)を出版されている。


実のところ河野氏とは浅からぬご縁がある。ご生前その謦咳に接することは叶わなかったが、私と共著を書いている戦史研究家で元防衛大学校教授(元1等陸佐)の杉之尾宜生氏は、自衛官として現役のときに河野氏から指導を受けている。杉之尾氏がまだ30代で3等陸佐の頃、機甲科(戦車)勤務から防衛庁防衛研修所戦史室(現・防衛省防衛研究所戦史研究センター)への勤務を命じられた。当時、戦史室は『戦史叢書』(大東亜戦争戦史叢書)全102巻を出版し終えた直後で、日本陸軍・海軍出身の研究員を軸として32名の在籍者がおり、これが自衛隊幹部へと入れ替わる時期を迎えつつあった。このときに一見地味ではあるが「軍」が活きるのに欠かすことのできない戦史研究に大きな期待をかけられ、研究を命じられたのが杉之尾氏であった。杉之尾氏が戦史室の研究員となったときの室長が河野氏であり、この段階で河野氏は「孫子」研究に相当程度打ち込まれていたという。杉之尾氏はその河野氏から影響と指導を受けて、徐々に「孫子」を本格的に研究していくことになった。杉之尾氏は後に1等陸佐で定年を迎え、文官へ転じた後も引き続き防衛大学校教授を務めたが、その経過のなかで戦略研究学会の編集責任において戦略論体系を出すことになり、『孫子』(芙蓉書房・後に日本経済新聞出版社から改訂版を出版)については、杉之尾氏が執筆することになった。杉之尾氏はこのとき河野氏から多くの助言を得ながら著作に取り組まれたとのことだ。


私はだいぶ前に戦略研究学会の初代会長であった土門周平先生(本名近藤新治・陸士55期)から、蔵書・資料などの寄贈を受けて引き継いだが、そのなかに河野氏(陸士52期)の論文・著作なども多く含まれていた。爾来、それらを読み込んでは、私自身の孫子研究に多いに用立てさせてもらっている。さて、杉之尾氏も私も河野氏からそれぞれ直接的・間接的に影響を受けていることになるのだが、この河野氏が遺された論文・著作などは今日ではあまり日の目をみることなく埋没しかけている。インターネットで著作を検索しても氏の孫子についての作品はほとんど出てこない状況なのだ。日本陸軍の士官として実戦を経験し、戦後は幹部自衛官と防衛大学校教授としての勤務の傍らで、孫子を一筋に研究し続けた方の業績が消えゆくのは惜しいことだと思っている。


考証学・訓詁学とはまた違うが、兵法のユーザーとしてアプローチした河野氏の作品は、何かの形で残しておくべきだと思い立ち、可能な範囲でその要約とエッセンスだけでも記録に残しておくことにした。特に河野氏が著された『竹簡孫子入門』は今では絶版となり中古本もほとんど出回らないが、安全保障環境が厳しさを増しつつある日本において改めて大切な知恵と視座を冷静に与えてくれる代物だと感じている。次回以降、この『竹簡孫子入門』のエッセンスと要約と若干の解説を、氏の研究論文なども参考にしながらまとめて本ブログで公開することにした。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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