「孫子」第30回 第5章 「戦術論」(9)

「孫子」は現代でいう合理性を重んじ、それを全体に反映している。合理性から在るべき姿を追求すると理想主義的側面が強く押し出され、同時に、合理性から出来る限りのことを追求すると現実主義的な側面が色濃く出てくる。これらを幅広く含むのが「孫子」の特徴である。部隊に勇気を伝播させ団結を高めて組織的戦闘力を強める「勇を斉えて一の若くす」のため、現実的に求められる精神作用として「怒」の感情を発起させることを説いたが、これを可能とするために、部隊にその基盤となる気力を満遍なく漲らせておくことが求められる。そのことを孫武は5段階の手段にわけて考えている。


第1段階は、平時から部隊での将兵の上下関係のなかに相互の信頼を醸成させておくことである。規律が積極的に守られているのか、形式的で消極的にしか守られていないのかなどがそのバロメーターにもなるという。指揮統率をする側とされる側といった明確な役割の違いがあり、それぞれが積極的に服するか否かは、信頼関係の有無と程度が大切であって、それが実戦において必要な激しい気力を生み出す基盤となる。


「令の、素より行なわるる者とは、衆と相い得るなり」(行軍篇)
(訳:法令が平素からよく行われているのは、上下が相い和し、心がぴったり一つになっているからである)


第2段では、実際の戦場に派遣された将兵が、現地において食料、医療、休養などの補給を十分に受けられるよう配慮し、それによって決戦の際に戦闘力を発揮できるようにすることである。ろくに補給を受けられない状態で気力を奮い立たせることは不可能といった孫武の合理的な知性に基づくものであるが、歴史のなかでは日本軍が大東亜戦争中に実施した「インパール作戦」のように、補給を無視して将兵に無理強いをするような戦いも散見される。


「生を養い、而して実に処れば、軍に百疾無し」(行軍篇)
(訳:健康に留意し、水草や薪があり、後方補給路の確保された「実」のある所に居れば、軍隊には色々の病気が起こらない)


第3段は、平時からの規律を有事のなかで杓子定規に運用するのではなく、その場の状況に応じて柔軟に運用することで、兵士の求心力や団結を維持するべきだとする。


「無法の賞、無正の令、もって三軍の衆を犯(もち)うれば、一人を使うが若し」(九地篇)
(訳:平素の規則には無い褒賞を与えたり、平素の規定にない禁令を定めたりして、部隊を使えば、全軍が一人のようにまとまってくるであろう)


第4段は、先に部隊の組織化と運用方法の整備で挙げた「分数」(編組)と「形名」(統制法、マネジメント方法)を、より柔軟に使いこなしていくことである。軍事組織の組織化には「編制」と「編成」といった2種類の表現が使われる。前者は平時から法令などに基づいて作られたある程度の継続性を持つ組織「編制」であり、後者は特定の軍事行動の目的のために必要に応じて組織「編成」されるといった文脈などで使われる。ここでは後者の編成に絞るが、軍隊には維持管理の効率化を軸にした管理編成と、タスクやミッションを達成するための任務編成とがある。管理編成の状態でもある程度の戦闘力の発揮はできるが、特別任務に直面しては、管理編成に拘らず柔軟に任務編成を実施した方が良いとして、孫武は次のようにいう。


「故に、善く戦う者は、人を択んで勢を与う」(勢篇)
(訳:だから戦いの巧みな者は、任務に適する人を選抜して、これに勢を与える)

「兵に選鋒無きを、北ぐると曰う」(地形篇)
(訳:軍隊に選抜した精鋭の先鋒隊がなければ、敗走することになる)


そして第5段として、将兵の「死力達成」に期待をかける。これは必死に戦う以外に生き残る選択肢がないような状態へ部隊を投入し、死力を尽くさせて戦わせることである。後に退く道がないことが分かれば、人間はときに超人的な力を発揮し、それが組織的戦闘力に繋がるといった苛烈な発想だ。


「手を携うること一人を使うが若くなるは、已むを得ざらしむればなり」(九地篇)
(訳:多数の部下を、互いに協力して、まるで一人のように働かせるのは、そうするより外に仕方のない状況に入らせるからである。)


この「已むを得ざる」状況というものに、孫武は「亡地」「死地」といった言葉を使っている。


「之れを亡地に投じ、然り而して後に存し、之れを死地に陥れて、然り而して後に生く」(九地篇)
(訳:部下を滅亡の危険のある条件下に投入してこそ始めて滅亡を免れ、部下を必死の条件下に陥れてこそ始めて生きのびる)


最後のこれは非常手段ともいえるものだが、孫武は戦場の実体験と合理性の駆使からこうしたときに峻厳で冷徹ともいえる回答を引き出している。


これまで述べてきた5段階を巧みに運用することで、部隊に気力が漲り戦闘において強い「怒」を発動し、それが勇気と一致団結を生んで組織的戦闘力を強化し「勇を斉えて一の若くす」の状態に至るとした。


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(本文は河野収氏『竹簡孫子入門』の要約を基本とし、読み下し文・訳文はオリジナルから引用しておりますが、それ以外の本文は全て新たに書き換えております。また、必要に応じて加筆修正、構造の組み換え、今日適切と思われる用語への変換を行っております。原著『竹簡孫子入門』のコピーとは異なります。)


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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