温故知新~今も昔も変わりなく~【第116回】 井伊直弼『茶湯一会集』(岩波文庫,2010 年)

・乱世から治世へと変わりゆく武士

戦乱の世から天下泰平となった徳川時代。武士たちの有り様も大きく変わっていた。教養が無くとも武芸で名を立てられた乱世ではなく、治世のなかで順応して生きていくために求められるものが変化した。ほぼ同時代、欧州の絶対王政などは常備軍と官僚制という区別や住み分けがあったが、徳川時代は常備軍の体制をそのまま官僚制へと転換させて統治をするシステムとなり、武士たちは統治者側に入るべく新たな教養が求められた。いつか起こるかもしれない戦に備えて武芸を磨くことに加え、儒学、朱子学の講釈を覚え、能楽、茶の湯などを嗜んでいくことになった。

・武士の教養になった能楽・茶道

今日、古典・伝統文化・芸能などの一言で括られる物事は、長らく変わらずに古色蒼然と存在してきたようにみえるが、それぞれの時代で変化しながらに連綿と続いてきた。近世、徳川時代、素朴だった儒学より煩瑣な朱子学が正統とされる一方、民間では論語本来とはかなり色合いを異にする講釈や世界観なども他方で多く生まれた。能楽などは、儀式や式典のなかに取り入れられ式楽化して荘厳さが増すなかで、面、装束、舞台の誂えも変化し、演じられるテンポもよりゆったりとしたものになった(それ以前は現在の倍速以上で演じられていたともいわれる)。千利休がその天才的なセンスで茶会に禅を調和させ大成させた茶の湯も、公的な儀式のなかに取り入れられる過程で作法の細部がより深く定まり浸透していった。 

・将軍たちの好みに応じて

五代将軍の徳川綱吉などは「能狂い」ともいわれたほどに能を好み、それを庇護するだけでなく自らも舞い、同じことを側近たちにも求め、ときに能楽師を武士に取り立てもしている。そうなると、武士たちは能を学ぶことで立身出世を期待するようにもなり、稽古に励む者が出てきた。茶の湯などは豊臣秀吉の時代には公的な儀式ともなり、徳川時代には二代将軍徳川秀忠などが家臣の邸宅で茶道のもてなしを受ける「数寄屋御成」を頻繁に行ったことで、武士たちは茶の湯を懸命に学ぶことにもなった。

・徳川御威光とその揺らぎ

徳川は武士たちを統治者の一員として織り込むために様々な工夫を行い、伝統文化などもその手段の一つとして用いて、武士たちもそれを忖度する形で適応していった。戦国乱世に生きた武士たちは刀・槍・弓・鉄砲を持って戦闘を行い、ときに返り血に塗れながら敵の首級を持ち帰り、本陣で大将の見聞を求める血生臭い側面があった。徳川時代にはこうした部分がなくなり、武芸はときに形式へと流れていく。そのなかで将軍の御威光は、参勤交代や朝鮮国王・琉球国王の使節を江戸城に迎え入れる際の威厳ある大行列など、式典や儀式に伝統文化を取り入れ荘厳にしていくことで強化された。その統治は盤石に見えたが、やがてその時代も終わりが近づく。黒船の来航と大砲の威力の前に将軍の御威光が見た目のほどの実力ではないことが天下に知れ渡り、波乱の幕末を迎えていくことになった。

・再びの乱世へ

いわゆる幕末史をどのように考えるかは、史料が多い分だけ様々であり、薩長史観、反薩長史観など振れ幅は広い。泰平から乱世へシフトするなかで、政治の権力闘争も激しくなる。黒船来航、開国、修好通商条約を巡って朝廷を巻き込む騒動、将軍後継ぎ問題で割れる一橋派と紀伊派などなど、その権力闘争や勢力争いは複雑極まっており簡単には整理できない。この時代のキーパーソンの一人に井伊直弼が出てくるが、歴史の教科書などでは「安政の大獄」、「桜田門外の変」などに紐づけて論じられる。井伊直弼という人は、筆頭老中の阿部正弘が心労で倒れ、その後を継いだ堀田正篤(正睦)もまた政局を巧く回すことができなくなり、老中にかわり大老を置く流れが出ると、突如として大老職を射止めて権力の中枢に躍り出てきた。なお、筆頭老中と大老では持つ権限が大きく変わり、筆頭老中は老中会議を一人で押し切ることはできないが、大老は将軍に代わり「台命」(将軍の命令)の名の下にそれが可能であった。

井伊は、京都の朝廷を無視して修好通商条約を調印し、一橋派を押さえて紀伊派を盛り立て将軍の後継ぎを決めるなど、その手法は「安政の大獄」という名に象徴されるように弾圧的ではあった。大老という権限を有した日から間髪入れずに動き、それまで政治決断を出来ずに滞っていた案件を、他の有力者たちの反発を制しきって決断していく姿勢を貫いた。それは怨恨を生むものであったから、後のその反動から「桜田門外の変」が起きて、井伊は暗殺され46歳で生涯を閉じている。


・大老井伊直弼の底力

この井伊という人が行った政治的業績の評価はさて置き、ある種の独断専行を成し得た胆力や剛腹さはどのようにして培われたのだろう。そんな知的関心から井伊直弼という人の思想というものを調べてみたことがある。その過程で読んだのは井伊自身が書き上げた『茶湯一会集』であった。井伊のその生い立ちは、1815年に彦根藩十一代藩主井伊直中の十四男として生を享けた。5歳で母が亡くなり、17歳のときに藩主である父が亡くなり、長兄が藩主の座に就くと、お城住まいから外へと転居を迫られる。新たな住まいを花も実もなることがない埋もれ木にたとえて「埋木舎」(うもれぎのや)と呼び、そのなかに質素な茶室を設けた。このとき残した有名な歌などがあるが、自らを埋木にたとえながらもその真意は腐ることなく生きていこうという意志も反面感じさせるもので、武芸、学問、禅、能楽、茶道(石州流)に実際のところ熱心に打ち込んだ。特に茶道への思いは強かったようで30歳になって間もなく千利休の本来を求めて己で一派を立てるとの意を示している。


・『茶湯一会集』

そこから間もない時代に草稿が書かれたとされるのが『茶湯一会集』であり、その内容は亭主がいかなる心配りでもてなし、客がそれをいかに感ずるべきかを軸とした細かな茶事の解説書である。私自身は茶の湯についてどうこうと語る資格などまったくないのだが、その詳細な書きぶりを読み進めていくと、井伊という人の律儀さ几帳面さを深く感じさせてくれる。そして、時折、石州流で言い伝えられてきた作法であっても、あるものは茶道の本意に至らないと断ずるあたりが強烈な自負と覚悟を感じさせもする。

『茶湯一会集』を脳内で茶事を想像しながら読み進めていくと、最後に茶会が終わり、亭主が客を見送ったあとの心の在り方へと言及する部分がある。静かに茶室に戻り、独りで座り、本日の客のことを思い出し、一期一会を感じながら独り茶を点てて飲む・・・有名な「独座観念」の部分である。

「・・・いかにも心静かに茶席に立ちもどり、この時にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有るべきに、もはや何方まで参らるべき哉、今日、一期一会済みて、ふたたびかえらざる事を観念し、或いは独服をもいたす事、この一会極意の習いなり、この時寂莫として、打語らうものとては、釜一口のみにして、外に物なし、誠に自得せざればいたりがたき境界なり」

井伊直弼という人は、茶道の型を真剣に長らくの稽古を実践し、そして精神をどの境涯にまで達しなければならないかを見定め、精神が持つ深淵さを掴み得た人なのだろう。それは後に期せずして藩主となり、大老となり幕政を総裁する立場になった際、厳しい決断を行う胆力の源にもなったと思う。型を真剣に丹念に練り続けて一つの境涯に至り、それを底力に変えられるのは一つの理想だともいえるだろう。


・桜田門外の変

井伊が暗殺された「桜田門外の変」は、1860年3月3日であり、水戸藩浪士、薩摩藩浪士によって井伊が乗る駕籠が襲われた。この襲撃の場面は映画・ドラマでもよく描かれ、ウィキペディアあたりでも詳細は十分に言及されているから一々ここでは書かない。ただ、井伊自身は自らが行ってきた苛烈な政治の反動から暗殺される危険を理解していたし、その類の情報も耳に達していた。ただ、権限があっても美学に反するとばかりに自らの警護体制を強化はしなかった。雪が降り続けた桜田門外の変の当日、護衛の彦根藩士たちは刀の柄が雪で湿らぬように袋をしっかりと被せたまま行列を組んで移動していた。これが仇となって襲撃を受けた際に、護衛の抜刀が遅れて防御態勢を取るのにしくじったのは有名な事実だ。


・型を練ること、型を棄てること

井伊直弼という人は、徳川時代に求められていた武士としての教養を、「埋木舎」で過ごした長い歳月のなかで徹底的に培った人であり、評価は割れるにしても大政治家ではあった。茶道でもって錬成した精神が深淵の境地に達し、それを政治決断の胆力に転化し得た人だとも思っている。教養人としての精神性、政治家としての胆力と決断、ここまではそれでいい。ただ、軍事、用兵、武道という視座で井伊を見つめたとき何をいい得るのだろう。教養人、政治家として暗殺や襲撃を覚悟して臆しない精神は立派ではある。ただし、責任ある者は生き残らなければならないし、現実を踏まえてその備えに手を尽くすことが否定されるものではない。実戦のために美学を犠牲にし、定められた護衛人数の規則など不要な形を棄ててしまう術もあったはずだ。型を真摯に練ったことで至った深淵なる精神は、今度は実戦のために型を棄ててしまうことにも通じるとも思う。一期一会も一度きりなら、真剣勝負も一度きりなのであり、いずれも型の挟み方、向き合い方が難しい。時に、型を使いこなしているようで、型に搦めとられてしまうそんな怖さがどこかに潜むような気がするのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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