温故知新~今も昔も変わりなく~【第119回】 石原敬浩『北極海 世界争奪戦が始まった』(PHP新書,2023年)

北極海といわれて咄嗟にイメージできるものに何があるだろう。白色の氷と濃紺の海水のコントラストがどこまでも続く他に、脳裏に浮かび来るものは限られるように思う。個人的にはどちらかといえば抽象的な存在だった北極海で、いま何が起こっているのかを知らしめてくれる1冊を最近読んだ。その本は「北極海 世界争奪戦が始まった」というタイトルで、石原敬浩氏という現役の海上自衛官によって著されたものだ。


著者は防衛大学校を卒業しているが、海上自衛官の経歴としてはユニークともいえるもので、前半は海上勤務を中心に過ごし、後半は一貫して陸上勤務となり、特筆すべきは海上自衛隊幹部学校に教官として二十数年間勤務をしてきていることだ。その間に大学院で国際政治学修士号を取り、自衛隊以外の大学でも講師を務め、長い知的探求の上に培われた知見をベースにして、古典戦略思想から現代戦略までを含む講義を担当している。


本書は全6章で構成されており、各章を簡単に要約すると次のような感じになる。第1章「地球温暖化で開かれる北極海」では、冷戦構造の下、北極海では米ソが緊張を孕みながら対峙していたが、冷戦崩壊後の暫くはそれもおさまり、北極海は氷で閉ざされた静かな世界となった。近年、急速に進んだ温暖化が氷を溶かし始めたことで、航行可能な海域が増え、各国の思惑を変化させ始めた事実を説明している。


その説明の過程で、領海、接続水域、排他的経済水域海などの基本ルールをわかりやすく言及し、海の憲法とされる国連海洋法条約、外国の領海でも他国の船舶が通航できる無害通航権や、それとは異なる通過通航制度などのポイントを押さえながら安全保障というフィルターを通して海の見方を示す。北極海の航行が困難ではなくなったなか、北極埋蔵資源や水産資源を巡る各国の角逐をイントロ的に展開する。


第2章「北極海をめぐる対立の歴史」では、「シーパワー」という用語で有名なマハンの戦略思想を冒頭で援用し、国家にとって海という存在がどのような意味合いを持つかを示して俯瞰させるところから始まる。その上で歴史を少し遡り、冷戦期以前、ロシア(ソ連)の艦隊が大西洋に出ていくためには、英仏海峡か「GIUKギャップ」と呼称されるグリーンランド(G)、アイスランド(I)、英国(UK)を結ぶ島嶼線を越えていく必要があったことなどを説明する。


それを巡る西側との「攻防」に併せて冷戦期に日本が宗谷、津軽、対馬の三海峡を有事に封鎖する役割を帯びていた意味へと言及する。続いて、「GIUKギャップ」の1つをなすグリーンランドが冷戦期から軍事的に重要な価値を持っていたかを説明し、冷戦崩壊後は緊張が一時的に緩和されたことで、島の持つ価値が低下して周囲からも「忘れられた海」になったとする。しかしながら、ロシアが再び大国を目指す動きを強めた2010年あたりから情勢は再び緊張を孕み始め、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドのスカンジナビア3国が対ロシアを意識した政策を打ち出し始めている事実を述べる。そのなかで割と混同しやすい「集団防衛」と「集団安全保障」の違いも分かりやすく説明している。


本書の第1章、第2章がイントロと総論的なものだとすれば、第3章、第4章は核心部分ともいえそうだ。第3章「ロシアと北極、プーチン大統領」の冒頭で著者は次のように言っている。


「この章では、ロシアの北極における資源・航路開発、それに伴う軍事力増強、近代化について見ていきたいと思います。最初に皆さんに理解していただきたいのは、ウクライナ戦争で改めて認識させられた、ロシアにおける軍事力の意味するところ、役割、われわれとの認識の違いです。「力の信奉者ロシア」。この言葉はロシアを研究する者にはよく知られています。・・・ロシアにとって「力」、特に「軍事力」は最も信頼すべきものという感覚、ロシアを見るときの注意事項だと思います」(第3章)


温暖化が北極開発を可能にさせると、ロシアがその先鞭をつけてガス田開発に勤しむことになり、必要があれば領土問題で他国と妥協してでも開発を優先してきたことや、ロシアの天然ガス輸出戦略の1つとして、北極海航路を経由してロシアからのLNG船が東京湾に入港した具体的事実に言及している。そこから、近年のロシアが北極海航路沿い、北極海沿岸地域に埋蔵されている資源開発に国力を注ぎ、利益を受け始めたことで、1つの表現として「温暖化でロシアの国益の重心が北上している」と喝破している。


加えて、ロシアはそれらを軍事力で守る戦略を選択し、冷戦後に一度は放棄された北極海沿岸地域の軍事基地・飛行場を整備し、戦力を再び配置し始めている。それはNATO諸国のステルス性能を持つ戦闘機なども早期発見できる新型長距離レーダ網の配備なども含むもので、軍事的資源を前線に振り分けることが求められるウクライナ戦争の最中でも、その取り組みは変わらずに続けられたと説明している。ロシアはウクライナ戦争で地上戦力を大きく損耗したが海空戦力は引き続き保持されており、基地整備だけではなく北極圏をカバーする北方艦隊の格付けを上げ、様々な演習を積み重ねていることもあり、現時点ではNATO側に対して北極圏ではロシアが優位だと述べている。


第3章のもう1つの論点として、数千キロにわたって国境を接するロシアと中国の関係は、その地理的関係から一定の緊張を孕む歴史であったが、これに近年変化が生じてきていることを明かしている。具体的には、ロシアの北極海航路の開発に中国の技術や資本の導入を期待し、中ロ合同の「氷上シルクロード」構想を起ち上げ、ウクライナ戦争以降の両国の結びつきなどを追跡している。


第4章「中国「氷上シルクロード」の野望と米国の反発」では、ロシアから中国へと視座が変わり、中国が北極海やその周辺の領域でどのような行動を起こしているのかを掘り起こしている。その北極観測の歩み、海軍による周辺航路での動き、資源開発へ食指を伸ばしつつある現実などを挙げながら、グリーンランド、アイスランド、北欧諸国への接近の事実を言及する。特に焦点にしているのはグリーンランドを巡る諸々の問題についてである。


「日本の約6倍の面積を有するグリーンランドですが、人口は約5万7000人。9割は先住民系で独立志向が強く、住民投票を経て2009年には外交、安全保障を除く広範な自治権を獲得することができました。しかしながら、独立への最大の課題は経済問題です。・・・自治政府は経済的な中国資本の進出を非常に歓迎してきました」(第4章)


ただ、中国資本の進出といっても、それらのなかには冷戦時代に使用されていた米海軍基地施設買収の申し出、民間空港の拡張工事への参入表明などがあり、安全保障上それらを看過できないデンマークや米国との間で摩擦を生じさせてきている。加えて、デンマークからの独立機運が一定程度高まってきており、そこへの中国の関与なども取り沙汰されているとする。


「最近注目を集めつつある北極、グリーンランド独立問題や中国の関与、ウクライナ戦争の影響とNATO・ロシア対立。こういったきな臭い状況下、大国の影響力確保に関して気になることがあります。ハイブリッド戦争とか情報戦という言葉が昨今、流行していますが、デンマークやグリーンランドでも情報機関が活動中という報道がありました」(同)


第3章、第4章はパワー同士の衝突といった国際政治の現実を軸に構成して執筆しているのに対して、第5章「協調可能性と課題:国際制度」では国際協調の可能性に軸を置き、北極海を巡る緊張緩和へのアプローチ、問題を平和的に解決し得る様々な枠組みを総花的に紹介している。最終章となる第6章「日本と北極」では、日本が歴史的に北極をどのように認識して行動し、その研究を蓄積してきたかなど、主に民間の人たちの取り組みについてポイントを絞って展開している。


本書を読むことで、個人的には北極海というどこか抽象的な存在だったのものが、具体的な諸々を伴ってそのリアリティを暴露し、今そこで起きている問題を認識させてもらえた。気候変動という1つの要因が安全保障上の変化をどのように促しているかを、より真剣に学ぼうという気持ちにもさせてくれた。このことだけでも本書を読む価値は充分にある。


しかしながら、「北極海」の現在を網羅しているはずのこの本が、網羅してないことは何であり、それらについてはどのような見解を持つべきなのかも同時に少し考えてみるべきだとも思う。読書の際、本に書かれていることを読み込むことは大切だが、本に書かれていないことは何かを考えるのもとても大切な知的作業なのだ。特に、本書の著者は現役の自衛官であり、テクニックを駆使できる学術論文ならともかくとして、一般向けの新書では防衛白書に書かれている「公式見解」の範疇を離れて、現代安全保障の論点を述べていくのは難しい立場にある。


たとえば、本書のなかでは、北極海やその周辺を巡る西側とロシア・中国の「攻防」が次第に緊張を高めていることを網羅するも、日本は安全保障上どうするべきであるかなどは具体的に論じていない。私が勝手に憶測して言うだけだが、著者は海上自衛官の教官を長く務め、国防の諸問題を考察する時間が十分にあった以上、これらについて深く広い知見を有しているのを想像するに難くない。ただ、著者は本書ではそれを論じないという選択をなされたと理解している。したがって、読み手はこのことを忖度し、最終章あたりは目を通しながらも、違うストーリー展開も想像しながら読書していくスタイルが求められているようだ。


なお、著者は本書のなかで戦略家マハンの思想を幾度か援用していることは先に述べた。その思想が凝縮された『海上権力史論』で有名になったマハンは、海軍大学校で最終講義を終えて退官した後、「大佐」の肩書を用いながら広く著述活動をしたことはよく知られている。本書の著者もまたいつか退官した暁には、自由な立場で著述活動を行い、過去に論じきれなかったことを正々堂々と主張していくのかどうかは見届けたい気持ちでいる。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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