温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第122回】 朱熹『朱子文集・語類抄』(中央公論社,1974年)
・振れ幅のある講座を目指して
12月に開講となる明治大学リバティアカデミーでのオンライン講座、「戦争と倫理・戦略と道徳を考える」(教養としての戦略学)」に向けて諸々の準備を進めている。本講座では、戦争=悪、倫理=善といったシンプルな線引きで満足して終えるのではなく、両者を交互に越境しながら、振れ幅を広く知的に考えてみるつもりだ。第1回は孫子の兵法と孔子の儒教(儒学)の世界を取り上げつつアプローチしていく。私の能力が限られており、講座がどの程度の代物になるかわからないが、日本ではあまりメジャーではない「戦争倫理学」といった領域に近いものを目指している。
突き詰めれば兵法は戦略目的のために、「武」(パワー)を用いてでもその達成を目指す世界。他方で儒教は政治目的のもとに、「礼」などをシステム化して平和裏に秩序を保つ世界。両者はそもそも同じ土壌で論じることができるかどうか議論がありそうだが、歴史のなかではうまく共存していた時代もある。たとえば、江戸時代の武士などは兵法と儒教を同じ体内に取り込んで生きていた。もっとも、この時代の儒教(儒学)は、孔子が説いたシンプルな倫理・道徳ともいえる「論語」の世界よりも、中国の南宋、朱熹(1130-1200)によって大成された「朱子学」の思想が強い影響力を持っていた。
・朱子学の世界
幕藩体制を保つために体系的政治イデオロギーとして重視された「朱子学」も、今日では倫理や道徳、教養の一つとして断片的に取り扱われる程度の存在である。かつて学問の最上位として信奉された「朱子学」だが、現在は哲学史のなかの知識として扱われ、ときに封建的教条主義の代表格としてのレッテルを貼られる代物になった。この朱子学とは一体どのような内容なのかといえば、古代中国から伝わる「経書」(四書五経)の解釈学が基本であり、特に、四書である「論語」「孟子」「大学」「中庸」の解釈を重視して、朱熹自身の手による解釈書である「論語集注」「孟子集注」「大学章句」「中庸章句」(あわせて「四書集注」と呼ぶ)を軸として展開される学問である。これら経書の価値を認め、それを正しく解釈して理解することが朱子学の要諦となる。朱熹は膨大な記録を書き残しており、それらを全部読む人は今日まずいないが、一部を抜粋した「朱子文集・語類抄」などが一般的に手に取られることが多い。
朱子学の世界観は精緻に体系化されているが、現代の感覚で読むと違和感を覚える部分も少なくない。他方で、日々の生活で何気なく使っている用語も含まれている。たとえば、「気」というものがその一つになる。朱熹の考え方では、天・地・人は「気」によって構成されている。天・地・人には空気、水、土、鉱物、人間、動物、植物を含み、これらがすべて気によって造られているとする。気は陰と陽があり、気が濃縮して固まって形をつくると「質」と呼ばれて、それは五つの性質、「木、火、土、金、水」の五行へと分かれてくる。世界は気が動くことで営まれ、人は天・地のなかで気を与えられて生まれ生きて、その寿命がくれば気が尽きて亡くなり、肉体を象っていた気は散じていくことになる。この世界観では死後の世界などは言及されない(存在しない)。
この気と同様にもう一つ「理」という要素が重視される。理には、世界における物事の在るべき姿を示し、森羅万象、あらゆる物事に秩序があるという考え方を含む。理はマクロでは大自然の在るべき姿を、ミクロでは人間の在るべき姿を含み、人間がこの理をいかに窮めていくかがテーマとなる。なお、あらゆる物事の秩序や個別の理は、大元では一つとなるが、これを「理一分殊」(理は一にして、分は殊なる)という表し方をしている。
「・・・天下の万物で、いずれも理をそなえていないものはありません。・・・身近な実践の順序は、物に格(いた)ってその知を致めることからはじまり、日常の事物に即して、その是非を区別し、その可否を判別し、それによって詳細に道理をきわめて深奥に達し、その成果を活用することになるのです」(朱子文集・語類抄)
・人の理について
人間の在るべき姿、人の理については、「本然の性」と「気質の性」といった言葉を使いながら展開する。万人が生まれながらにして持つ本来の理として「本然の性」、個人の気質の差によって生ずる現実の個体差を「気質の性」などの用語によって、人間の理想と現実の振れ幅を説明していく。そして、この人が持つ本来の理との関係で、「五常」という仁・義・礼・智・信が扱われ、特に「仁」をその中心として位置づけ、仁を「愛の理、心の徳」(論語集注)であるとしている。
「天地は物を生じることを、心とするものである。そして人や物が生じる際には、またそれぞれかの天地の心をうけて、(おのが)心とするものである。ゆえに心の徳なるものは、余すところなく万物をつつみ貫いているけれども、一言で蔽(おお)いつくせば、仁にほかならない」(同)
要するに、万物を生み出す天は仁であり、その在り方は人間の在るべき姿も含んでいるということになる。ただ、人間の在るべき姿が仁であるとはいえ、そうした理想的な状態に人がいつもあるわけではない。むしろ、自分勝手に振る舞い、人間は常に諍いを起こし、争い合って、最後には戦争を起こしているが、だからこそ、自らを「学問」という手段を通して「修養」していくことの大切さを説く。
・有名な「格物致知」と統治理論
学問を修養していく文脈に関連して、「格物致知」(『大学』)という用語が出てくるが、これは有名な「修身・斉家・治国・平天下」の前に、「格物・致知・誠意・正心」といった形で表れてくる。簡潔にいえば、斉家・治国・平天下の以前に、身を修め(修身)、そのためには、心を正しくし、意を誠に保ち、さらには「格物致知」へと行き着くことが求められる。朱子学では格物を「物に格(いた)る」と読み(なお、陽明学では「物を格(ただ)す」と解釈する)、知の限りを尽くして物事の理をきわめていくということが到達点となる。そして、こうした理屈が統治するための道具として使われる時、「格物致知」を成し得て、身を修めることが出来たものが天意の下に統治者となり、その他大勢を導いていくという考え方になっていく。粗削りな説明であるが、これが朱子学の体系でありシステムであった。
徳川は幕藩体制を維持していくために、この朱子学を体系的政治イデオロギーとして利用することを決め、それを担当する林家の当主に「大学頭」(だいがくのかみ)という律令制に出てくる地位を与えた。以来、朱子学は正当な学問ということになった。ただし、日本では、江戸期を通じて市井に多くの在野の学者があって、学問の多様さがわりと許容され、朱子学だけが圧倒的な権威をもっていたわけではなかった。その点、隣国の中国(明・清朝)などは、高級官僚の登用試験である「科挙」制度を採用しており、その正答は朱子学の解釈を以て充てることに決められていたので、朱子学が圧倒的な権威を持つことになった。
・朱子学を読む価値はあるか
さて、先ほども述べたように、朱熹が残したものは「朱子文集・語類抄」などで読むことができる。現代語訳はさほど難しいわけではなく、概念を掴むことができれば、読み込むこと自体はさほどハードルが高いわけではない。ただ、今日において朱子学を読むことにどれほどの価値を見出せるかが問題ともいえる。当時と今では科学的知見の水準が全く異なるし、現代において朱子学が説く体系やシステムをそのまま受け取る人はまずいない。かつては聖人の教え正しく解釈する学問、体制を維持する思想、そして、そのなかで立身出世を遂げる道具としてなどの価値を有したが、それらは既に失われている。今となっては、朱子学は哲学史の一領域、社会のなかで倫理や教養の断片として静かに息をしている程度の存在なのだ。
ただ、私個人としては、かつて大きな力を振るった学問を突き放して読むことができることにこそ価値があるようにも思う。現代からすれば違和感を覚えもするが、だからこそ、どこか客観的かつ批判的に、朱子学の精緻につくられた世界観や体系を読み込んでいくことは論理を追っていく力を磨いてくれもする。科挙のような試験の正答として暗記が求められているわけでもなく、多くを価値なしと捨てても構わないのだが、時折、価値ありと感ずる文脈に出会うような体験もあるだろう。このときに自分の価値観とのマッチングの理由を静かに深く考えてみるのも悪くない。こうして、論理的に考えていく力、批判的に考えていく力、哲学的に考えていく力などを涵養はしてくれるはずなのだ。
最近、リスキリングという用語について聞かない日はないが、多くは実務に直結する知識についてのものだ。もちろん、これらは必要な学びだとは思うが、迂遠のようにみえて、諸々の考える力を鍛え直すことが、案外、企業などの生産性をあげていくことに繋がることもあるだろうし、リスキリングにはこうした部分も問われているようにも思うのだ。古本屋でかび臭くなって埋もれている朱子学などは、そのための格好の材料になってくれる。そして、もしかすると、この書物を開くことは倫理的・道徳的に考える力も向上させてくれるかもしれない。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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