温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第124回】 平井富雄『禅と精神医学』(講談社学術文庫,1990年)
夏目漱石の草枕の冒頭は「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」で始まる。何かしらを行って日々の糧を得て生きていくなかで、少なからずこうした心境に時に至ることは世間一般的によくある。現代人が行き詰まりを感じ、ストレスなどの度が過ぎて心身に何かしら好ましくない症状が出てくると、その解決を求めて坐禅(座禅)などの禅の世界に足を踏み入れることや、メンタルクリニック(精神科・心療内科)などを受診することもわりと普通になっている。
私自身はこれまでに寺院で正式な坐禅をしたこともなければ、メンタルクリニックを受診したこともないが、禅宗の老師・僧侶や精神科を専門とする医師ら幾人かとやや不遜な言い方だが友人・知人付き合いをさせてもらっている。もちろんそれぞれの道・専門や知識に対して敬意を払ってはいるし、私自身も書物などを通じてわずかばかりは学ばせてもらっている。禅ならば無門関、碧巌録、鈴木大拙、精神医学ならばフロイト、フロム、土居健郎、藤山直樹などである。もっとも、ただ読書をしただけのことで、何かを分かっているなどとは思わないし、老師・僧侶や医師たちと歓談するときも自らの立場は弁えてはいるつもりだ。
大分前に古本屋を巡っているときに、精神科医としての立場から禅についてアプローチした面白そうな本を見つけた。『禅と精神医学』(講談社学術文庫)というタイトルに興味が惹かれて買い求めたのが正直なところだが、読み進めていくと色々と感ずるところがあった。
本書は、医学博士の平井富雄(1927~1993)が精神科医としての立場をしっかり守りながらも、曹洞宗の第四祖ともされる瑩山(けいざん)禅師(1268~1325)の『坐禅用心記』にアプローチして、医学的な視座から坐禅などについて展開しているものだ。平井はこの文庫本が出るに至るまでに禅については相当の研究を行っており、それがもたらす効果を大脳生理学からも肯定的に認めている。その上で、さらに探求を進めるために漢文で書かれた『坐禅用心記』を自家薬籠中の物とするが如く時間をかけて読み込んでいる。
「・・(坐禅用心記)そこには瑩山禅師が修行によって徐々に変化してゆく人間の意識が、あたかも私たち精神科医が行う精神療法によって、患者の心がしだいに自立性とアイデンティティをとり戻し、ついには、新しい社会的自己確立にいたって、悩みからの解放へという方法さえ暗示されているのを、私は発見したのである。そうして、心の安定と意識の転換のために、是非とも坐禅をその医学的根拠と合わせて、人びとに知ってもらったらどんなに心の健康のため良いかと、考えたものである・・・」(「学術文庫」版まえがき)
平井は本書において精神科医として現実社会の人々を診てきた体験や知見を披露しながら、禅の領域にまつわる知識と併せて筆を進めていき、適時『坐禅用心記』からの読み下し文の引用と平井自らが考えた「大意」(現代語による意訳)を載せている。たとえば、社会のなかで生きていくために、何かをつかみ取るために必死になり、そのうち何かを成し遂げたと思い込み、自らの名や地位に強い拘りを持つ自己顕示欲に囚われてしまった場合について『坐禅用心記』から「かつて名を知らず」「縁に対せずして照らす」などの下りを引きながら展開している。日本社会においては有名・無名の程度が少なからず物事を進めてゆくことに影響を与えているし、名があることで物事が上手くいくのであれば、本人も周りもそれを利用すること自体は否定しない。ただ、当人の拘りが過ぎて病んでしまった場合、その名はむしろ自らを縛ることになるという。
「・・・「縁に対せずして照らす」というのは、流れに流れ、流れに転ぶ石のように、その現実を直視せよとの意味である。専門の言葉では、これを「現実検証」の能力といっている。要するに、有名、無名の区別は表面のこと、心が悩むときに、「現実」に対応できぬ思量が働いている。それを知らないから、余計に悩むのが人間の心をさらに蝕む原因となる。過去に執着するから、「現実」の諸相がみられない。未来を指向するあまり、「現実」を忘れる。この意味からいうと、「坐禅体験」は、精神医学でいう「現実検証」の能力を、個々の人びとの心に植えつける機縁になる。「思量せずして通ず」るのは、だからわが身の置かれた現実を直視して、それを自力でプラスに転化させる能力をいう」(4「全身独露」)
平井の基本的な態度は禅にたいして肯定的であり、脳波データの分析などに基づいても坐禅が良き効果をもたらすことを認めているが、それでも禅を手放しで礼賛しているわけではなく厳しい指摘もしている。ストレスが多い現代社会において、禅の側が坐禅の効果を積極的に説いてまわる度が過ぎれば、それは「現代禅が現在人に媚びる」ことになるという。瑩山禅師の教えは本質的にそのようなものではないのではと疑問も呈している。
また、平井が真剣に禅を理解しようと努め、多くの書籍を読み込んでは考えてゆくなかで、鈴木大拙のある部分についても厳しい批判を行っている。それは簡単にいえば、大拙とフロムの共著である『禅と精神分析』(創元社)を取り上げて、そこで説かれている「宇宙的無意識」という言葉が大いに飾られてこそいるが、とても了解できる範囲ではないと評する部分である。
「・・・(宇宙的無意識)・・・とうてい、現代人の心に通用する説得力は、そこに汲みとれないのである。私には、晩年の鈴木大拙博士が、ネオ・フロイディアン(新精神分析学派)のフロムにかつがれて、悟りを妙な表現、あるいは文学的でも哲学的でも、まして宗教的でさえない概念として苦しまぎれに表明しただけのことのように思われる。彼のこれまでの膨大な著作に接してきた限り、この表現にはあまりに精神分析のいう「無意識」に迎合したおもむきが多く、それまでの彼の考えを安易に精神分析という科学に移しかえてよしとする、疑似科学性に毒されていたのを知って、痛々しく思うものである」(38「不思量底を思量す」)
なお、平井がこうした厳しい批判をした理由は、禅瞑想には「無意識」なる精神分析の概念はほとんど含まれていないとして、これを本旨として述べたいためとも弁明している。
平井は精神科医の立場から『坐禅用心記』を解説するという企画は、曹洞宗からの依頼を受けたものであり、同宗の老師・僧侶たちとの良好な関係を保っているともいう。他方で、本書における平井の禅(禅瞑想、禅仏教)に対する態度は徹底した合理性と科学的な態度を保っている。
この「和して同ぜず」が本書の魅力となっており、精神医学と禅が並行して論じられて互いの共通する部分を際立たせ、精神医学からみて禅を支持する部分、批判と批評を加える部分などが織り交ぜられている。簡単にいえばプロの態度を守ったものともいえるし、平井自身の専門や知見の限界を超えてまで、何か語り得ないことを無理に語ろうとはしていない。このことによって、あくまでも精神医学と禅の価値を相対化させることに成功しているともいえる。本書に対して禅の側からすればまた違った批評や批判があるのかもしれないし、或いは「不立文字」として何も反応しないのかもしれない。
個人的には、本書のような価値を相対化させるのは如何にも現代らしい適切なアプローチだとは思う。他方で、こうしたことを繰り返すと伝統や格式諸々で保たれていた権威などもある意味では引きずり下ろされてしまうだろうし、あまりに正体をさらけ出させた気になり過ぎれば、これがまた随分と世の中を退屈させるようにも思うのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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