首都大学東京オープンユニバーシティ 『孫子とクラウゼヴィッツ』(夏期)
会津戦争と 「孫子」 「クラウゼヴィッツ」
講義録
1. 会津戦争の背景と開戦
・慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府・会津連合は敗北。薩長は近代的兵制と最新銃を整備済み、会津は旧式の軍制のままだった。
・会津は改革の遅れを痛感しつつも、財政難で十分な対応ができなかった。
・その後、薩長は錦旗を掲げ、心理的効果(孫子のいう「勢」)で圧倒した。
2. 会津藩の軍制改革と白虎隊
・鳥羽伏見後、会津は急ぎ「フランス式散兵戦術」を導入しようとした。
・年齢別に白虎(16~17歳)、朱雀(18~35歳)、青龍(36~49歳)、玄武(50歳以上)に編成。
・近代化への転換を図ったが、時すでに遅く、装備・訓練の不十分さは否めなかった。
3. 政戦略の不一致 ― 奥羽越列藩同盟
・会津は「武備恭順」を外交方針としたが受け入れられず、新政府は討伐を決定。
・仙台・米沢を中心に奥羽越列藩同盟が結成され、東日本政権構想に発展。
・ただし、各藩の政治目的は統一されず、「孫子」の戒める政治と軍事の一致を欠いていた。
4. 越後戦線と新潟の失陥
・越後は補給拠点として死命を制したが、薩長が信濃川を強行渡河し、長岡城が陥落。
・新潟港も失陥し、武器補給線が断たれる。
・クラウゼヴィッツが説く「河川防衛の過信は危険」という指摘を体現する失敗だった。
5. 日光口の戦い
・大鳥圭介と山川大蔵が協力し、地形を生かした戦闘で薩長の侵入を食い止めた。
・山岳戦で猟師隊を活用し、敵を狭路に追い込み全滅させた戦術は「摩擦を克服した勇敢な指揮」の事例。
・ただし補給難は常につきまとい、戦局を大きく転換するには至らなかった。
6. 白河口の戦い
・東北防衛の要衝・白河城をめぐる戦い。会津・仙台が多数の兵を投入。
・しかし総督に非戦派の西郷頼母を据えるなど人選に誤り。指揮経験の乏しさが致命的だった。
・薩長は周到な偵察と砲撃戦を展開し、同盟軍は総崩れ、700名戦死。
・「情報の軽視」「指揮系統の不統一」が敗北を招いた。
7. 総括
・会津戦争の敗北要因は単なる兵力差・火力差ではない。
- 政治と軍事の不一致(孫子の戒め)
- 情報戦の敗北(敵情を誤認)
- 指揮官の資質の欠如(勇敢と無謀の差)
- 摩擦の克服失敗(クラウゼヴィッツの概念)
・結果として、奥羽越列藩同盟の潜在力を生かしきれず、新政府軍の戦略優位を許した。
まとめれば、会津戦争は「孫子」と「クラウゼヴィッツ」の理論で照らすことで、政戦略の不一致・情報軽視・指揮官の資質不足という「失敗の本質」が鮮明になる事例である。
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