兵とは国の大事なり~戦略の業~ 【第7回】 「幕末・鳥羽伏見の戦いの「X」」

・鳥羽伏見で善戦していたフランス式の「伝習隊」

「ああ!あれは錦の御旗だ!」と叫んで徳川方諸藩が戦意を喪失して、総崩れで前線から潰走をしたとされる「鳥羽伏見の戦い」。数の上では徳川方が約15,000で旧装備が主体、対する薩長方は約5,000で新装備を持ち、その火力の前に徳川方が敗れ去ったという描かれ方をされることも多い。これが一定程度は事実であるとしても、少しミクロな戦闘レベルで見ていくと、徳川方にも随分と善戦していた部隊もあった。大鳥圭介に率いられた伝習隊は、鳥羽伏見の戦いが起きるよりも1年と少し前、幕府の軍制改革の一つとしてつくられた部隊で、旗本や御家人の子弟を中心に選抜され、歩兵の数が約800名で編制された。フランス軍事顧問団の指導のもとで限られた時間ではあったが、近代的な歩兵の戦闘技術や射撃を習得していた。この伝習隊は徳川方が薩長方から掌握する京都奪回を狙った鳥羽伏見の戦いにおいて、鳥羽街道に主力として投入されて進撃している。


・伝習隊(攻撃側)と薩摩藩兵(防御側)の激闘

伝習隊は小枝橋付近で、十分に迎撃態勢を整えていた薩摩藩の部隊と接触して戦闘開始。伝習隊の主力は射撃を間断なく続けたことで善戦していたとされる(伝習隊も薩摩藩兵もともに前装式銃)。ただ、鳥羽街道は横幅が狭く、特に交戦した地点では地形が狭隘となっており、そこに薩摩藩の部隊が事前にアームストロング砲などを配備して有効な火力網を形成していた。一方で伝習隊は鳥羽街道の制限された地形をまえに火砲(大砲)を展開できず、加えて歩兵部隊も横隊での展開が難しい状態であり、限られた火力の発揮しかできなかった。さらには、当時、徳川方が前線への補給や兵站の維持に対する知識が乏しく脆弱であり、彼らは手持ちの弾薬が欠乏していく中で戦うことを強いられた。伝習隊は激闘の中でも攻撃前進を試みたともいわれるが、薩摩の火砲によって阻止されて次第に防御に転じていくことになった。


・錦の御旗に対するX(対抗要素)はあったか

防御に回った伝習隊はそれでも戦線を維持していたが、薩長方に「錦の御旗」があがり、徳川方の諸藩が撤退を始めると、伝習隊もそれにならって退くことになった。ただ、諸藩が潰走していく中で、彼らは比較的秩序を保って撤退をしたといわれている。なお、この「錦の御旗」についてだが、岩倉具視が京都の西陣の織物職人に急ぎ作らせたものであることが今日ではほぼ史実であり、決して古来より御所にあったものではない(要するに誰も本当の錦の御旗などは知らなかった)。ただ、薩長方は戦いの決勝点(重要なタイミング)に錦の御旗をあげる決断を下し、徳川方が潰走したことで終わったのが事実であるが、戦略論的にもう少しだけ思考実験をしてみたい。

① 錦の御旗があがるまでの間、鳥羽伏見の戦いを俯瞰してみれば一進一退(少なくとも映画・ドラマ・学習漫画で描かれるような徳川方が一方的に苦戦ではない)。

② 徳川方(攻撃、京都奪回)VS 薩長方(防御、入京阻止)という構図で、徳川方は京都への突破が出来なく焦燥感が募っていた(薩長方の防御が成功)。

③ 錦の御旗があがり、徳川方は朝敵のレッテルを張られて自ら戦意喪失。 

こう考えてみると、戦術レベルの戦闘の膠着が、戦略レベルの「錦の御旗」という乗数で駆逐されて一気に風向きが変わってしまったわけだが、これに対抗しえるものがあったとすれば何であろうか。一つには徳川方の総大将の徳川慶喜が、前線からはるかに離れた大阪城などに陣取っていないで、最初から前線の近くにいて、ここぞとばかりに大号令をかけていれば、「生身の総大将の号令」VS「誰も知らずの錦の御旗」という対決になったかもしれないということは言えるだろう。なお、クラウゼヴィッツや孫子は政治的指導者・軍事的指導者が前線に赴くことについて様々と論じているが、これについてはまた改めて触れたい。徳川慶喜という人の複雑さについてもまた改めて考えたい。

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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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