温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第17回】 本居宣長 白石良夫 全訳注『うひ山ぶみ』(講談社学術文庫,2009年)

「論語」でブログを書き続けていると、筆者はお堅いイメージを持たれ、一方で「会って話してみると意外にソフトなんですね」と言われることが多い。「論語」は若いときから親しんできているが、だからといって至上主義者ではない。「万葉集」「古事記」もとても大切にしている。

平成から令和へかわり、この国の歴史の中ではじめて万葉集がその出典となった。この先、万葉集ブームが起きるかどうかは知らないが、かつて江戸時代にそれを研究し復権させた賀茂真淵、そして、その人とのたった一夜の出会い(松阪の一夜)で、深く影響を受け、「古事記」の研究に身を捧げた本居宣長の存在をなくしては、今日、「万葉集」「古事記」を十分に理解することが出来なかっただろう。本居宣長は「古事記伝」なる全部で44巻の注釈書を著した。正直、これを全部通読するのは相当骨が折れる。もっともそのエッセンスを知りたければ、近年は良書があり、そのひとつは「本居宣長の「古事記伝」を読む」(神野志隆光・講談社選書メチエ)がおすすめだ。


さて、宣長が34歳で志した研究が「古事記伝」で結実したときには69歳。その後、門人たちに頼まれて、初学者への助言をまとめる格好になったのが「うひ山ぶみ」だ。この本は平易な言葉で書かれており、分量もないので読むのは難しくない。宣長がこの中で、するどく批判するのが「漢意」(からごころ)というものだ。
この「漢意」とは、

漢国(中国)の風儀を好み、かの国を尊ぶことだけをいうのではない。
多く一般に、あらゆることの是非を議論し、ものごとの道理をさだめるといったこと、これらすべて漢籍の趣である・・」(「玉勝間」巻一「からごころ」より)


ようするに、中国の形にカブレ、過度な装飾に目がくらみ、漢籍が持つシロクロつけたがる性質のことで、そうしたものに足を取られ過ぎないように気をつけなさいということだ。当時、そのくらいに「四書五経」をはじめとする漢籍や朱子学が大きな力を持っており、物事を見るときのフレームワークとして知識階級につよく働いていた。この「漢意」を排した上で、「古事記」「万葉集」をしっかりと向き合う必要があるという。ただ、学問の道を志しても、好き嫌い、向き不向きはあるから、そこはきちんと見極める必要があるし、学ぶ方法論も絶対にこれがよいというものは無いとする。その上で、長い年月を倦まず怠らずにつとめていくことが肝要だという。


宣長は、学問の根本は何かといえば、それは「道」を学ぶことだとする。ただ、この「道」を学ぶのもまた、「漢意」に陥ることを避けねばならないという。要は、言葉でもって道理を掲げて、これこそが道であるというような簡単なものではないのが難しいところだ。「うひ山ぶみ」のなかではないが、「直毘霊」(なおびのみたま)の中で、こう書いている。


わが国の古代では、わざわざ「道」ということをいわなかった。道に名前をつけて観念的に論じるのは、異国(中国)でのことである

つまりは簡単に言(こと)あげして(言語化)満足するようなものではないとする。そして、道を学ぶ要諦は歌にあるとする。


歌を論じた一節に「そもそも歌は・・必ずことばにあやをなして、しらべをうるはしくととのふる道なり」というものがある。

ことばの「あや」つまりは、いろどり、あそび、余白を持たせるということなのだろうが、この一節、現代人が足を取られがちの表層的な論理性を超え、とてもとても深いことをいっていると思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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