論語よみの論語知らず【第9回】「知者は水をこのみ、仁者は山をこのむ」
「頭脳の良し悪し」と「性格の良し悪し」。定義にもよるが、前者はテストである部分は数値化可能かもしれないが、後者はそういかない。前者は学歴程度のことを左右するかもしれないが、後者は人生を左右する。愚問だが「頭脳の良し悪し」と「性格の良し悪し」をマトリックスにして自由選択できるといわれたら、全ての人が「良・良」を選ぶだろう。(例外がないとはいわない)
古代では「頭脳の良し悪し」≒「性格の良し悪し」で論じられたこともあるが、現代では両者は別物としてあつかわれる。拡大再生産が前提の経済構造のなかでは、たとえ同工異曲でも「モノ・サービス」(カタチ)を生み出しては費やし続けることを要求される。そして「頭脳」のかなりがこれに費やされることになる。この多忙な時代では「頭脳」が「性格」を向上させるためにさしむける時間の確保はなかなかむつかしいかもしれない。
「子曰く、知者は水を楽(この)み、仁者は山を楽む。知者は動、仁者は静。知者は楽しみ、仁者は寿もてす」(蕹也篇6-23)
【現代語訳】
老先生の教え。知者(賢人)は川にほれぼれするが、仁者(聖人)は山にだ。(だから)知者は活動的、仁者は静止的。知者は(積極的に)楽しんで生き、仁者は(冒険することなく)天寿のままにつつがなく生きる(加地伸行訳)
やや詩的で穏やかにおもえる論語のこの言葉は、頭脳はどのベクトルに向くべきかを仄めかしているようだ。孔子が生きた時代周辺は、商業が徐々に盛んになりはじめた。現代とは比較にならないくらい小規模で原始的なものであったが、貨幣が使われはじめたことなどもあいまって、街に住まう人々は知力をつくして商売上の工夫をすすめ、いろいろな「モノ・サービス」(カタチ)を生み出していた。 なお、孔子の思想と呼ばれるものは経済的繁栄を否定しない。むしろそれを安寧のために大切な要素として位置づけている。 ただし、「知」がカタチの生産と消費することだけにかまけていてばかりではいけないという含意はある。カタチを求める人間の懊悩をのぞいてみて、カタチを捨て往きて、その源泉を探すような観照も大切なのではないか。
そうした態度を人がおのずからとることを、孔子は一つの「仁」として位置付けた。自分から他者へと向かい、社会に対してアピールしがちな知のベクトルを、自分の奥に向けて内省していくとき何が見えてくるのか。そのプロセスは現代の言葉でいえば、おそらく「退屈」な世界なのかもしれない。功名心や出世欲、経済的願望、それらを捨てゆき、カタチがなくなり、「川」が干上がる異様な様相が浮かび上がってくるかもしれない。
ニセモノ・似非の仁者ならば「山」で遭難して帰り道がわからなくなる。だから仁を志すべきだが、分際を見極め、知と仁のベクトルが双方向にして往来を可として自らを保ち(保身)なさいとの暗喩とも解する。いずれにせよ、この一文は知者と仁者のどちらが勝るかなどをいいたいわけではないだろう。もっとも、真の意味で知者の門に立つことですらあまりに遠い道かもしれないが。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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