論語よみの論語知らず【第10回】「堂に入る」

人は親疎の隔てに関わらず、変わることのない人間関係、常に固定されている線引きというものまずない。そう見えるとすれば、そこには相応の努力量が介在している。それは時代を問わず同じなのかもしれない。人にたいして一応の称賛をあらわす「堂に入る」の出典となった一文の背景に考えてみると、なんとも含蓄が深い。

 

「子曰く、由の瑟、なんすれぞ丘の門に於いてする、と。門人子路を敬せず。子曰く、由や堂に升れり。未だ室に入らず、と」(先進篇11-15)


【現代語訳】

老先生がおっしゃった。「由(子路)君が瑟を弾じるの(を聞くと調子が勇ましくて、しかもはずれている。それ)は、わが塾では無理であるぞ」と。門人たちは子路に敬意をはらわなくなった。すると老先生はこうおっしゃった。「由君は、すでに堂に昇っている。まだ室に入っていないだけだ」と(加地伸行訳)

 

孔子一門のなかでも有名な弟子の子路。「山月記」で知られる中島敦の作品「弟子」などで描かれるその生きざまは強烈だ。若いころより武闘派で、剣を帯びて孔子に挑むつもりで訪いをいれるも、人間力によって軽くいなされ、圧倒されて、そして弟子になる。爾来、孔子の側に侍るという意味では近い弟子で、その謦咳に接することも極めて多く、だが苛烈な武闘派という個性は生涯変わることなく、その意味では遠い弟子だった。

孔子は教育がもつ力をつよく信じた人だが、同時にその限界というものも冷静に見極めていた人だ。ながきにわたる師弟関係のなか子路は、もののたとえとして「堂」という「客間」までは入った。では「室」という奥にある「書斎」にまで入れるかと存在としてみたかといえば、孔子は不可として線引きをした。むしろそうするべきではないと思っただろう。

 

子路が根源的に持つ苛烈な闘争性は教育で取り除くことは難しく、それは独善性と結びつきやすい。そして、堂にとどまって、孔子を近くとも遠く仰ぎ見る存在であってこそ適度にコントロールされうる。だが、ひとたび室に入って、孔子に心身ともに近づき、自分は理解したと思い上がれば、もはや独善性と闘争性はかたく結合し「増長慢」となり手の施しようがなくなる。そのリスクを看破した孔子は、「つかず離れず」の関係性を目指して、寄り添いと突き放しの努力を繰り返しながら「分際をわきまえさせた」。この表現が封建的ならば、「個性を保たせた」という言葉にする。

 

もっとも、後年、子路は孔子のもとを物理的に離れて、衛の国で政争に巻き込まれて、剣戟のはてに落命することになる。そのとき、斬られながらも、乱れた自らの冠のひもをなおし、「見よ!君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」と喝破して果てたのだ。子路らしい「道」の終わり方だ。もし「堂」にすら入ってなければもっと惨めだっただろう。

なお、子路の死を聞いた孔子、中島敦は「老聖人は佇立瞑目(ちょりつめいもく)すること暫し、やがて燦然として涙下った」と表現している。蛇足だが、一流に対して「堂に入る」といえば、意味するところは「あなたは一流に一歩及びませんね」と大変な失敬となる。いまの時代、この線引きがテキトーなことだけは事実だ。

 

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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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