論語読みの論語知らず【第26回】「任重くして道遠ければなり」
サングラス姿がトレードマークともいえる歌手の浜田省吾氏。66歳になられた今も第一線で歌い続けており筆者は個人的にはファンだ。その浜省さんの曲のひとつであるA NEW STYLE WAR 、この歌の最後に「・・愛は時にあまりに脆く 自由はシステムに組み込まれ 正義はバランスで計られ It’s A NEW STYLE WAR・・」という歌詞が出てくる。素敵な歌詞だが、これらを巡っては、新しいスタイルの戦いだけでなく、古くから続いてきた戦いにもいえることなのだ。自由がカタチのなかで活かされず死に体になること、正義がなにか取引可能な商材のように扱われること、そしてなによりも、愛(忠恕・まごころ)が脆くあることなどに対して、論語はそれらの事態に対して本質的には「戦いの声」をあげるものだ。ただ、それは道としては大変なもので、そんな生き方を貫くには困難が伴う。それでも、こんな一文で叱咤激励するのだ。
「曾子曰く、士は以て弘毅ならざる可からず。任 重くして道 遠ければなり。仁 以て己が任と為す。亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや」(泰伯篇8-7)
【現代語訳】
曾先生の教え。(人の道を求めるという)志のあるものは、度量があり(弘)、また強い(毅)人間でなくてはならない。その負担が重く、達成まで遠いからである。人の道(仁)を己の任務とする。なんと重いことだ。それも死ぬまで続く。なんと遠いことだろう
この曾子とは、孔子の弟子で「身体髪膚之を父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」で有名な「孝経」を著したともいわれている。歌詞の「自由はシステムに組み込まれ」から敷衍してみると、論語に派生する儒学の世界こそが、「礼」というガチガチのシステムに個人を組み込み、鋳型に厳格にはめ込んで、思考や表現などのあらゆる自由を奪う形式主義の権化のようなイメージを持たれるかもしれない。
しかしながら、本来の礼の目指すものは、論語の学而篇に「礼の用は和を以て貴しとなす」とあるように自らに由る、和気あいあいとしたところを指向するのが本旨なのだ。ただ、論語の世界の「自由」とは、今日の一般的な自由のイメージや、個人奔放のそれとは異なり、あくまでも人と集団の関係性のなかで調和されるもので、それを礼というシステムが介在担保するものだ。自由とシステムはどちらかが一方を飲み込むようなものではなく互いに両立し補完しあう中庸を本旨とするのが論語の目指すものともいえる。
歌詞の「正義はバランスで計られ」・・論語の言葉が生み出された時代は、いわば弱肉強食の時代で各国が覇権を争う一方、戦争するに際してはその大義名分を美辞麗句で飾った。ただ、論語の価値観に生きるものは、それをただの美辞麗句のままに終わらせることを潔しとはせず、それが仁に適うかどうかを問題にし、ときに「士」(志ある者)はそれに命を賭した。「愛は時にあまりに脆く」・・この言葉を忠恕というまごころの意味に置き換えてしまうが、論語はこの価値を真正面から信じて貫こうとした者たちのから生み出された。これらを守ることが仁(人の道)であり、それを貫けと「士」に迫る論語のこの一文は強烈だ。
一方で、「死して後已む。亦遠からずや」が仄めかすのは、破れかぶれになり、ただ暴発するだけの犬死のようなものは許さないともする。ギリギリまで生きて、巧に明哲保身して、道を実現しろということを迫っているのだ。今でいう「自由、正義、愛」を背負って道ゆく論語の士の世界はなんとも重いことだろうか。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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