温故知新~今も昔も変わりなく~【第37回】 司馬遷『史記』

「史記」はこれまでどのくらい読み返してきたかよく覚えていない。10代後半に初めて読んだとき魂が震えたと表現してよいくらいの衝撃だった。「史記」の構成は歴代の王朝史である「本紀」十二篇、礼楽などの文化について記した「書」八篇、年表を集めた「表」十篇、王族や有力者たちのことを集録した「世家」三十篇、さまざまな人物の伝記を中心とした「列伝」七十篇の五つに分かれている。解説本、ダイジェスト本などがたくさん出ているが「列伝」にフォーカスしたものが多い。それは、悲憤慷慨、悲喜交々の人間学がやはり面白いからだろう。


「史記」を編纂した司馬遷という人物。さてどんな思想の持主だったのだろう。司馬遷の生きざまを描いた中島敦の小説「李陵」は有名でかつてこのコラムでも取り上げた。(第15回)司馬遷が蘇って肉薄してくるかのような書きぶりはさすがだなと唸るが、一方で、中島はこの作品を仕上げるにあたって後漢時代の班固が書いた「漢書」の記述によるところが多く、そうした意味では班固というフィルターを通した司馬遷像であったことは否めない。私自身、「史記」を何度も読み返しているうちに、司馬遷のものの考え方やその世界観に深い関心をもった。


「史記」はいうなれば個人(父司馬談と司馬遷の共作)が書いた歴史書(正史)だが、それでもほかの正史に比べても圧倒的に評価が高い。では、「史記」全体を通してみると論理や思想が矛盾なくすっきりとしているかといえば実のところそうでもない。怜悧な司馬遷のどこか泥臭いところもやはり浮かび上がってくる(それが魅力だ)。あまり重要視されないが、歴史家司馬遷は、同時に、暦や天文を扱うのが本業であった。暦や天文を扱うといえば、どこか科学的な匂いと合理主義的思考のようなものがついてまわるが、実のところはどうだったのだろうか。


「書」八篇のなかに「天官書」という一篇がある。内容はいうなれば当時の天文学だが、これを今日の科学的視点からだけ眺めるとよくわからなくなる。「天官」とは天文における官の体系を意味しており、当時、官吏(官僚)に位の高低や序列・階級があるように、星座にも位の高低や序列が存在しているという思想である。たとえば、天の中央官、東官、南官、西官、北宮などの五官を決め、それぞれ天極星、蒼竜星、朱鳥星、咸池星、玄武星が「長官」として位置付けられ、そのもとにさまざまな「官吏」が連なるという思想だ。


これらの星座を観測しこの運行の変化がどのように地上の現象、たとえば、干ばつ、洪水、争乱に影響していたかを過去の記録を突き合わせて、そして当時の運行を克明に記録し、同時に未来を見抜く努力が司馬遷のミッションであり、天文を扱うことはいわば占星術師として立場にあった。司馬遷は星座の動きの背後に「天の意思」の介在をわりと素直に肯定している。天を単なる自然物として捉えた合理主義のさきがけともいえる「荀子」とは異なっていた。こう書くと司馬遷のイメージもだいぶ変わってくると思うが、漢代は現代の価値観でいう「呪術」や「迷信」がそれなりに強く人の思考を縛り、司馬遷もまたそれらと真摯に向き合った人でもあった(それが司馬遷の価値を貶めるとは思わない。現代のわれわれもまた科学的視点に縛られ過ぎていたと100年先の未来にはいわれるかもしれない)。


小説「李陵」に書かれているように、武帝の命令の下で北方に跋扈する匈奴を征伐に赴いた武将・李陵の敗戦を司馬遷が弁護すると、武帝の逆鱗にふれて役職や名誉をはく奪された上に宮刑(腐刑・男性機能を切断)に処せられた。ときに司馬遷47歳のことだ。その後しばらくして、中書令という役職に復帰させられ、それから後はひたすらに「史記」の執筆に全身全霊を捧げることになった(その心中にどのような葛藤があったかを小説「李陵」では想像力豊かに描かれている)。


ちなみに事実として司馬遷は自らに宮刑を科した武帝について「史記」のなかでどのような言及をしているかといえば、「孝武本紀」のなかでは割合淡泊に武帝が「封禅」などの祭祀に一生懸命励んだ姿を記録するも、匈奴征伐や内政の実績には省略されているのだ。そうなると司馬遷は武帝に対する歴史家としての評価を回避したのか・・といえばどうもそうではないようだ。


「書」八篇のなかに「平準書」という一篇がある(多分ほとんど読まれることはない)。平準は物価を調節する制度のことを意味し、これは武帝のときに始まったものだ。この「平準書」は漢代のいろいろな経済事情について書かれているが、大雑把にいえば漢代の始まりから武帝までの間、国は豊かになりそのピークに達したことに触れ、武帝の時代より徐々に下向きになり、ついには「平準」などの制度を導入せざるえなくなったと言及している。そして、同時に、匈奴征伐という戦争が莫大な国費を投入して、結果として国富を失い、治政が乱れ、干ばつや洪水に有効に手を打てずに発生した食料不足や飢饉について触れている。


このあたりに司馬遷の武帝に対するその評価を間接的に込めているのかもしれない。小説「李陵」に描かれる司馬遷は李陵を必死で弁護する姿だが、司馬遷の真意は国をいたずらに乱すことになる外征をつよく諫めるところにあり、それが、外征を自らのライフワークのように思っていた武帝にとっては我慢ならなかったのかもしれない。「史記」については諸説あり、そのどれが正しいかなどとはとても私にはいえない。ただ、「史記」を読み返す度、いつのまにか司馬遷という人物と対座しているが如き気持ちにさせてくれる意味ではやはり素晴らしい作品だ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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