温故知新~今も昔も変わりなく~【第53回】 和辻哲郎『日本精神史研究』(岩波文庫,1992年)

とても変わった英語の先生だったと記憶している。私が10代のときのことだ。英語の授業の体裁ではじまり英文学の話題に徐々にシフトして、次に芸術鑑賞の話に展開し、仏教美術の見方に結実していった。受験教育云々の観点からすればクレームが数多きてもおかしくなかったが、私はこの授業が好きだった。仮にH先生としよう。H先生があるとき仏像とはどのようなポイントを押さえながらみるとよいだろうか、そんな話の中から和辻哲郎の話となった。和辻哲郎(1889~1960)は哲学者・倫理学者として位置付けられ、「古寺巡礼」が広く読まれている。H先生は和辻が説く日本の仏像は赤子の体をモデルとしているとの切り口を紹介してくれた。


「仏像の相好はただ単純な人体の写実ではなく、非常な程度の理想化を経たものである。そうしてその理想化は、ギリシアの神像においては人体の聖化を意味しているが、仏像においては「仏」という理念の人体化を意味している」


「・・自分の考察は、白鳳天平の仏菩薩像を眼中に置いて、これらの像の作者がいかなる人体の美を生かせて彼らの「仏」と「菩薩」とを創作したかについての、一つの落想から出発する。ギリシアの流れを汲んだ西洋美術の写実的な美しさに親しんだ者には、仏像や菩薩像は多くの不自然と空虚の感じを与える・・」


「・・久しい間何の答えをも自分は見いだすことができなかった。しかるにこの疑問は、ついに嬰児(えいじ)によって自分に解かれたのである。最初自分は、生まれて間のない嬰児の寝顔を見まもっていた時に、思わず「ああ仏様のようだ」と言おうとした。が、その瞬間にまた愕然として口をつぐんだ。・・・自分は嬰児のにおやかな顔を見るごとに、また湯に浸って楽しげに手足をおどらせるその柔らかな肢体を見るごとに、特にその神々しい、「仏のように清浄な肉の感じを嘆美せずにはいられなかった。かくて幾月かを経る内に自分は、仏像や菩薩像の作家がこの最も清浄な人体の美しさを捕らえたのに相違ないことを、・・確信するに至ったのである」


この回の授業はもはや英語とはまったく関係なくなっていたし、そこを突っ込まれたらH先生も強弁できなかっただろうが、ただ妙に印象深い話だったので覚えている。H先生は「日本精神史研究」(岩波文庫)にこの話が収められていると教えてくれたので、私は地元の書店に赴いて買い求めた。これが和辻哲郎の作品との最初の出会いだった。お陰さまでその後年月とともに和辻の作品をいろいろと読ませてもらうきっかけとなった。「倫理学」「日本倫理思想史」などの大部は決して読みやすいとはいわないし、読み進みていると上品なテイストの飲み物を次々とテーブルの上に供されていくような感覚となる。これが心地よくおもうときもあるし、まったく反対に感ずることもあるから、私の読み方などまあいい加減なものだ。


H先生が教えてくれたこの「日本精神史研究」は様々な小論から構成されているので幾分読みやすい。上品な文体だがときおり顕れる和辻の強い信念や思想、大胆さと真摯さを見出していくのが私なりに和辻作品を読むときの愉しみ方にしている。この作品のなかの小論に「推古時代における仏教受容の仕方について」というものがある。和辻の独特のスタンスが顕れる内容でとても興味深いのだ。仏教が日本に入ってきたばかりの頃、それがどのように受け止められて信じられたのだろうか。ある物言いとしては、日本人は仏教の思想をきわめて浅薄にしか理解せずに、仏という存在は現世利益の実現をもたらすために祈られたものに過ぎないともいわれた。これに対して和辻は反論していくのだ。確かに当時の日本人の多くが苦で包まれる現世からの解脱を得ることを至上とする原始仏教の動機にシンパシーを感じなかったことは事実であろう。そうした感覚を有するには日本人はあまりにも無邪気かつ朗らかであり、また、人々が煩瑣な論理が入り組む仏教哲学を理解していくのも困難であった。だが、和辻は次のようにいうのだ。


「・・なるほど彼らは仏教を本来の仏教としては理解し得なかった。彼らは単に現世の幸福を祈ったに過ぎなかった。しかしそれにもかかわらず彼らの側においては、この新来の宗教によって新しい心的興奮が経験され、新しい力新しい生活内容が与えられたのである。しかもそれは、彼らが仏教を理解し得たと否とにかかわらず、とにかく仏教によって与えられたのである。従って彼らは、仏教をその固有の意味において理解し得ないとともに、また彼ら独特の意味において理解することができた」


オリジナルをそのまま受容することが全てではなく、それ以外の道もまた許容されてしかるべきとのユニークな物言いだ。仏教に限らず外来するものの形や本質を崩し変えてしまう遠因を和辻は日本人の無邪気や朗らかさにみている。思えばその後仏教は大きく変質していく。それこそ葬礼や先祖供養を厚くする儒学のコンセプトを取り入れ、一方で鑑真和上が失敗に失敗を重ねてようやく6回目で渡海して伝えた厳しい戒律(修行者の生活規律)も、後に最澄(伝教大師)はそれがなくとも悟れると廃してしまった。(ちなみに鑑真和上が立ち上げた奈良の唐招提寺は拝観寺院として有名だが、今日では戒律の全てを守って生活する僧侶は誰もおらず事実上不可能とも仄聞した) 
月並みな表現だが変わりくること、変わりゆくことで仏教は生き残った。その歩みのなかで180度変わったものもある。それこそ僧侶が着ける袈裟は、源流に遡れば出家したものがボロ布を継ぎはぎして身にまとったモノからきているが、今日では僧侶の権威を顕すものになっている。現代ではあまりにいろいろな付着物が混沌とする仏教の固有の意味を問いただしてくのは至難のようだ。いやそれでも無邪気に朗らかにそんなものを突破して本質に至る御仁もいて、禅語でいうところの「世尊拈一枝花迦葉微笑」(世尊は拈(ねん)ず一枝(いっし)の花、迦葉(かしょう)は微笑す)の如き刹那が世のどこかでは起きているのかもしれない。ただ、そんな御仁はもはや袈裟など着けている保証はないのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

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