論語読みの論語知らず【第67回】 「命を知らざれば、以て君子と為る無きなり」

つい数日前のことだった。東京から近隣の県へ急遽出張となり、午前中のまだ早い時間に友人の運転するSUVで山手通りを進みながら富ヶ谷の高速インターを目指していた。気がつくと目前に黒塗りのレクサスがいた。それは車体後部に無線アンテナが数本立ち、助手席側のサイドミラーには補助ミラーが付き、スーツ姿の複数の男たちが乗車しているのが見て取れた。警視庁SPが乗る警護車であることをすぐに看破したが、もしかしてと思い振り返ると、すぐ後ろには黒塗りのセンチュリーがいた。間違いなくそれは総理大臣専用車だった。我々が乗るSUVはいたずらのような偶然だが警護車と総理大臣専用車にサンドウィッチされる格好でしばし同道することになった。


無論、それは総理を乗せてはおらず、おそらくは総理私邸にお迎えにあがる一行だったのだろう。(総理が乗られていたら車列に入り込むことなどはできない) よく見ると前方の警護車は一般ドライバーに道を譲ってもらう都度ハザードを点滅して礼をつくしており、それは総理専用車も同様だった。総理が乗車されるときは警備という機能上の理由から車列を崩さず、ときに一般ドライバーを警笛で鋭く制しもするが、そうでないときはむりに車列を組まずに一般ドライバーに礼をつくす。民主国家のひとつのありようとして妙に感心した。(近隣の国の中では、要人が乗る車列が権威はまさにここにありとばかりに常に警笛とサイレンを鳴らして、一般車両を駆逐するが如く進みゆくことはよくあるのだ) 


この文をアップする頃には7年8カ月続いた政権が新たな政権へと変わり始動している。予期することが難しかった新型コロナの対応と決断に文字通り命を燃やしてあたり、健康を害してボロボロになったリーダーが自ら退く運命を選んだ。内閣総辞職直前の最後の会見では「・・経済再生、国益を守るための外交に一日一日全力を尽くしてきた。この間、さまざまな課題に国民とともにチャレンジできたことは私の誇りだ。すべては国民のおかげで心から感謝申し上げたい」と述べられた。そんな姿を見ていて論語の一文を思いだした。 

 

「孔子曰く、命を知らざれば、以て君子と為る無きなり。礼を知らざれば、以て立つ無きなり。言を知らざれば、以て人を知る無きなり」(堯曰篇20-3)


【現代語訳】

孔先生の教え。(人間は、神秘的な大いなる世界における、ごくごく小さなものであるから)自分に与えられた運命(命)を覚らない者は、教養人たりえない。(人間は社会生活をしているのであるから)社会規範(礼)を身につけていない者は、人の世を生きてゆくことはできない。(人間はことばを使うのであるから)ことば(言)について理解できない者は、人間を真に理解することはできない(加地伸行訳)

  

民主国家に生きる人々は自由であるからこの長期政権に対して支持・不支持は当然ながらわかれ、その評価もいろいろとある。実際、言論の自由が保障されているなかでこの政権はいろいろと厳しいことも言われてきた。そして1年前までは現実には想像することが難しかったコロナ禍においてそれは一層エスカレートしたように思う。未曾有の事態、どうなるかわからない不安のなかで、メディア、ネット、個人のSNS・・その舌鋒は鋭かった。それでもリーダーは言い訳せずに自らの至らなさと反省の弁を述べた。もちろん厳しい批判は民主国家のリーダーが甘んじて受けなければならない宿命のようなものだろう。ただ、私個人としては去っていくこのリーダーは「命」、「礼」、「言」を尽くした人であったと思っているし、少なくとも大変お疲れさまでしたと率直に申し上げたい気持ちだ。


未知の疫病の大流行と政治とリーダーシップ、そんな連想からふと古代アテネのリーダーであったペリクレスのことを思いだした。いまからおよそ2500年前に民主政アテネの黄金時代をつくりあげたともいうべき人だ。ペリクレスは「ストラテゴス」といういわば内閣の一員に30年以上も選挙で当選を続けその第一人者であった。彼が何をしたか・・その功罪を詳しく述べ始めると一冊の本を書かねばならなくなる。その余裕はないので代わりにものすごく単純化して述べれば、ペリクレスとは「マラトンの戦い」などで有名なペルシャ帝国との戦争に勝利してから暫くたったアテネに、比較的平和で経済的繁栄を謳歌する数十年をもたらし、それが宿敵スパルタとの大戦争(ペロポネソス戦争)が始まるまで維持し続けた人でもある。


政治家としてのペリクレスが内政と外交に一日一日全力を尽くす中で、その政治的武器は圧倒的な弁舌にあった。言葉でもって市民集会を説得できなければ政治が動かない時代においてその能力は群を抜いていた。それはいわゆるデマゴーグが大衆煽動して熱狂させることや、空理空論や詭弁を弄するものではなかった。今日残されたものを読む限り、彼は自分の意見を整理してはっきりと示し、聴く者にじっくりと考えさせるスタイルだ。なお、現代でもよくありがちな「市民が主役だから何でも発言してほしい」如きの迎合はせずにどこか超然として一線を画している感じも伝わる。それでもアテネが平和で繁栄している間は人々も余裕があり、ペリクレスが示す政策を考えて冷静に支持もした。ただ、その平和が破られてしまいスパルタとの戦争が始まると余裕はなくなり状況は一変する。


民主政の国家において戦争をリーダーがたった一人で始めることはない。スパルタとの小さな諍いが次第に拡大し、国内のテンションは日に日に高まる。スパルタとの開戦を前にペリクレスが残した演説には、戦争への情熱と冷静さのバランスが保たれている。奇妙な戦争ともいうべきかスパルタとの戦争は両者の正面衝突、決定的会戦が行われなかった。ペリクレスが意図的にそうした消極戦略を採用して、人々の熱狂が冷めた適当なところで和平に持ち込むことを考えていたとの見方もあるのだ。しかし不運なことは起こるもので開戦して間もなく疫病が大流行したのだ。治療法が分からずにアテネの市民たちはバタバタと死んでいく。大戦果のない戦争と治療法のない疫病の大流行を前にペリクレスは人々から強い批判を受け、でっち上げられて罪で弾劾され内閣から追放されてしまう。しばらくして気変わりした人々から再度内閣の一員に選ばれ重責を担わされているが、今度はペリクレス自身が疫病にかかり亡くなってしまうのだ。命の灯が消えゆくギリギリまで国政に向きあったペリクレスは、アテネの平和と繁栄の時代と戦乱と疫病の時代の両方を経験しながら、自らの運命をどのように考えたのだろう。勝手な想像だが冷静に受け止めていた人だったように思うし、この人もまた「命」「礼」「言」を尽くした人だったように思うのだ。


なお、ペリクレスにまつわる有名なエピソードがある。この古代アテネではストラテゴスという内閣の一員にSP(警護員)はつかなかった。公務を終えたペリクレスが自宅に戻る時に、夜道を灯で照らす従者が一人付く程度だったともいう。ある時、熱狂的なアンチが帰宅途中のペリクレスに罵詈雑言を浴びせ続けて自宅の門前まで付いてきた。ペリクレスは従者に命じてその熱狂的なアンチの帰り道を灯で照らして送り届けさせたといわれている。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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