温故知新~今も昔も変わりなく~【第52回】 町田三郎『呂氏春秋』(講談社学術文庫,2005年)

儒家や法家などいろいろな学派の総称として「諸子百家」という用語が使われる。その諸子百家の中に「雑家」と分類されるものがある。雑家とは儒家、法家、道家などいろいろな思想が入り混じっているとの意味からその呼称を付けられ、それを代表する書物に「呂氏春秋」がある。これは全部で百六十篇から成り、十二紀・八覧・六論の三部門で成り立っている。このうちの十二紀からいくつか抜粋してみる。


「古の聖王の教えは、孝と忠とを最も栄誉とし顕彰した。忠孝は、君主や親の強く望むものである。世に栄え顕われることは、臣下や子として強く願うものである。しかし君主や親は欲するものを得られず、臣下や子は願うものを得られない。それは道理をわきまえないからである。道理をわきまえないことは、学問しないことから生じる。・・・聖人は学問をすることから生まれる。学問もしないで偉人や名士になった者は未だかつてない・・」


「昔の聖王たちが天下を治めるときには、必ず公正を第一とした。公正な政治をすれば天下は平和であった。平和は公正であることから生まれる。ためしに上古の記録にあたってみても、天下を得た王者は数多いが、興隆するときには必ず公正で、滅亡するときは偏って公正を欠いている」


「家庭内で父母の怒りや叱責がなかったならば、その家庭の子どもたちの悪さはすぐ目立つようになり、国家にきびしい刑罰が施行されなかったならば、臣下や民衆がたがいに仲違いしてせめぎあうことは目前にあり、天下に悪を誅伐する正義の軍がなかったならば、強い諸侯による小国への侵略は止まないであろう。だから怒りや叱責は家庭教育になくてはならず、刑罰は国家を治めていくうえでなくすわけにいかず、誅伐は天下の平和のために止めるわけにはいかない。ただそれらはその運用に巧拙があり、そこに工夫が必要なのである。こういうわけで古の聖王は正義の兵を興すことはあっても軍隊を廃止することはなかったのである」


ランダムに抜粋してみたが、これだけをみても色々な思想が混じる文字通り「雑家」の代物であるとわかる。この「呂氏春秋」は呂不韋(りょふい)という人物の手によって成った。呂不韋は紀元前221年に中国を天下統一した秦の始皇帝の「キングメーカー」として知られている。秦が天下を統一する前の中国は戦国時代であり、各国がその覇を競い生き残りをかけて熾烈な戦いを繰り広げていた。呂不韋は「趙」の国に拠点を持ついわゆる「政商」出身であり、鉄といった戦略物資を商って莫大な財を成していた。この趙の国に秦の王子子楚(しそ・始皇帝の父とされ後の壮襄王)が人質として住まわされており、呂不韋はこの子楚と知り合い「もしかしたら大化けするかもしれないから先物買いで投資しておこう」と考えた。そこから呂不韋は大金を使いながら子楚の名が高まるようにプロデュースしていくと、やがてその名は本国の秦にも知られるようになった。この結果として人質として冷や飯を喰らってひっそり終えるはずだった子楚の人生は一転し秦に戻ることが叶い、呂不韋は秦で子楚をあらゆる手段をつかってさらに売り込んだ。それが成功して子楚は秦の王位継承権を得てほどなくして王位についた。


さて、これよりずっと以前に子楚にせがまれて呂不韋は自らの愛人を献上している。この愛人が子楚のもとへ赴いたときには、すでに呂不韋の子を身ごもっており、生まれた子は政と名付けられて子楚の子として育てられた。これは「史記」の「呂不韋伝」に書かれており、つまり始皇帝は子楚の実子ではなく、秦の血脈に連ならなかった出自であるとする。(もっとも同じく「史記」の「始皇本紀」などにはこうした記録はない) 「呂不韋伝」は俗説に過ぎず、王などについては「本紀」を重視するべきという考えもある。ゆえに結局のところ真偽はわからないし、司馬遷がどのような意図で併記したのかも判然とはしない。


先に呂不韋は始皇帝のキングメーカーと表現した。政(始皇帝)は「父」の壮襄王が亡くなり、間をそれほどあけずして王位を継ぐことはできたが、まだ幼く実権はともなわず、一方の呂不韋は宰相として地位も名誉も財も寡占して絶頂を極めていく。あらゆるものが欲しくなった呂不韋は、自らの財力を駆使して使用人を1万、そして食客を3千人召し抱えたといわれている。この数字は誇張されているだろうが大勢の食客を抱えたのは事実で、その中の知識人たちに命じあらゆる知識を集めて書物として編纂させる事業をおこなった。これによってできたのが「呂氏春秋」であり、呂不韋は「天下の万物古今の事」を網羅したと自慢した。


これだけだと百科事典をつくりました程度の話にすぎないので、呂不韋はこれに権威と格式を持たせるべく工夫をさせた。それは、当時の先端的思想でもあった「時令」といった考えにもとづいて編集したことが画期的であった。この時令の考え方をシンプルにいえば、1年を春夏秋冬と十二カ月に分割して、天文気候や自然と日常生活のリズムを連関させて、それに従って行動していくことを是とするといった思想であった。このあたりの説明が難しいのだが、いわば科学的思考と非合理的思考をゆるく論理的に結んでいるような感じだ。(現代に生きるわれわれがこの時令の詳細を説明されてもピンとはこない。だからといって迷妄と俗信に過ぎないと切って捨てる態度もまた慎むべきとも思う)。呂不韋はこの編集方針で「呂氏春秋」の体裁を整えることはできた。だがこの時令なる考えがこれを束ねている楔のようなものとすれば、これが無くなればバラバラと黄砂にまぎれて散逸してしまうような心細さを覚える。それでも「雑家」であることを踏まえたうえで当時の色々な考え方を気軽に知るためには手ごろな書物かもしれない。もっとも呂不韋自身は「呂氏春秋」に書かれたような生き方をした男ではまったくない。そんな人物が大号令をかけた書物だから裏の裏に隠れている呂不韋の匂いといわば鵺(ぬえ)のような気配をどこか常に感じるような代物であり、そうと割り切って読むべき書物かもしれない。


繰り返すが呂不韋と始皇帝の関係が「父」と「子」であったかはわからない。仮にそうであっても正面からそれを言えるような関係でもなかった。ただ、真実はどうあれ、呂不韋なる人間性はそれが自分にとって使える手段と思えば、その「事実」を幼い政にたいして巧みに匂わせ続けただろう。それが政から始皇帝に変わりゆく人格形成に与えた影響は深い深い闇であったとは思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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