温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第60回】 ネルソン・マンデラ『自由への長い道』(NHK出版,1996年)
アパルトヘイト(人種隔離政策)を知ったのは中学一年の地理の時間だった。当初、アパルトヘイトなる語感からは何も伝わってくるものがなかったが、担当教師がドキュメンタリーを見せてくれて変わった。80年代後半、白人の女性と黒人の男性がアパルトヘイトの制約に縛られつつも結婚に向かっていく内容だった。南アフリカ政府は肌の色で堂々と苛烈な差別を取り入れているのにショックであったが、それと戦うネルソン・マンデラ氏なる存在を知るきっかけにもなった。大学留学時代、差別や公民権運動にまつわる歴史の授業を履修した。担当教授が辟易とするくらい多くの課題図書と論文を読むことを求めたが、講義内容は充実しており多くの学びを得た。ただ、そこではキング牧師やガンディーを中心としたものであり、両者の非暴力主義がどのように差別や圧政と向き合っていったかにフォーカスするものだった。
大学の1学期で出来る限界もあったと思うのだが、そのときはマンデラ氏について触れることはあまりなかった。当時、私が知っていたマンデラ氏は大統領になってからの姿がほとんどで、ニュースなどの映像から穏やかで微笑みを絶やさないイメージがあり、氏が若い時からアパルトヘイトと戦ったスタイルもキング牧師やガンディーのような非暴力主義スタイルがメインなのかと勝手に思っていた。それがかなり異なることを知ったのはずっと後のことであり、マンデラ氏の自伝「自由への長い道」を読んだときのことだ。96年にNHK出版から翻訳発刊されている同書は上下巻で1000ページ近くあるがじっくりと一読する価値のある本だと思っている。裏表紙に紹介されている略歴には次のよう記されている。
「ネルソン・マンデラ 1918年、トランスカイ生まれ。フォートヘア大学卒。44年、アフリカ民族会議(ANC)青年同盟創設に参画。52年、アフリカ人の弁護士として初めて法律事務所を開業、反アパルトヘイト運動にのり出す。62年に逮捕され5年の刑、64年に反逆罪などで終身刑を追加され、結局、27年間にわたって服役。90年2月釈放、91年7月ANC議長。93年12月、デクラーク大統領とともにノーベル平和賞を受賞。94年5月、大統領就任。本書は英米でベストセラーになり、絶賛の嵐で迎えられた」
この略歴は事実だしもう少しだけ氏の歩みをなぞりたければウィキペディアで学ぶこともできる。ただ、マンデラ氏が何を思い、苦しみ、立ち上がり、戦う術を学び、そして終身刑にどのように耐え過ごしたかを知るためには同書を読むのが一番良いだろう。
マンデラ氏は南アフリカのトランスカイ地方の出身であり、部族を中心にした生活で幼いころを過ごしている。コーサ族の一部族であるデンブ人の王族に連なる出身であったことで、わりと恵まれた少年時代を送っており田舎では白人の支配をそれほど強く感じることなく育った。順調にいけば王の顧問としての人生が約束されており、その役割を果たすため必要な知見と教養を身に着けるために大学への進学も支援された。だが、都会でみた露骨な白人優位と黒人やカラード(混血民)への差別に対して徐々に反発を強めていく。その一方で厳しい制約を受けながらも努力を重ねて法律を学び弁護士への道筋を開いていくのだ。仕事を進めていくなかでときに白人たちと妥協や融和をすることを学びながらも、肌の色合いでもって一方が他方を支配する社会をまともであるとは思わず、法律がそうした差別社会を担保保証しているとすれば、それをつくりだしている政治がおかしいとして徐々に反アパルトヘイト運動に身を投じていくことになるのだ。ただ、弁護士であることからマンデラ氏は法律の範囲内でどのように戦うことができるかも徹底して研究する。
現代でも存在する軍事独裁国家などとは違って、当時の南アフリカはアパルトヘイトという人倫に反する政策を行いながらも法律やそれに基づく手順などは遵守しなければならず、司法、立法、行政も不完全ながらもある程度は独立していた。故に、政府がマンデラ氏を気に食わないからといって独裁者が命ずるかのように銃殺はできないし、何か理由をつけて拘禁や逮捕をしても、それを裁くのは裁判所であり基本は法律に則らなければならない上、加えてマンデラ氏が自ら法律闘争を受けて立つので簡単につぶすことなどはできなかった。ただ、反アパルトヘイト運動やストライキが全国に拡大していくにつれて、白人優位を失う恐れから政府もそれに対して暴力を使った鎮圧へと流れを変え始める。マンデラ氏はこのあたりから苦しみながらも非暴力による戦いの限界を悟り、法律に反して国外に出て外国の支援を求め、そして時に「地下」に潜伏して政府と戦うための軍事部門をつくりあげることに舵を切るのだ。
発足した軍事組織の名はウムコント・シズウェ(民族の槍)と命名され、MKなる略称で呼ばれることになった。マンデラ氏自身は自伝のなかで告白しているがそれまでは兵士として訓練を受けたことも、戦闘に参加したことも、軍事について研究したこともなかったのだが、一転して学習と経験を深めていくのだ。ただ、マンデラ氏は非暴力主義の限界を感じて軍事部門をつくったとはいえ、決して全面的な武力闘争に訴えたわけではなく、あくまでも政府からの妥協を引き出すために仕方なく迫られた選択肢だと考えていた。したがってその基本戦略は人間に対する被害が最低限の破壊工作、たとえば軍事施設や発電所、電話線、輸送門などをターゲットにした攻撃に絞ることにした。自伝では次のようにいっている。
「・・とりあえず、人間に対する被害がいちばん少ない破壊工作から始めるのが、妥当なところだろう。人の命が失われることがないので、あとあと人種間の和解という面から見ても、それがいちばん望ましい形ではないかと思われた。わたしたちは、白人と黒人のあいだに根深い反目の種をまくつもりはなかった。・・・わたしたちが内戦を始めたりしたら、白人と黒人の関係に、どれほど大きい亀裂が生じるだろうか?破壊工作には、人員が最小限ですむという利点もあった・・」(第6章より)
この自伝のなかで意外な発見だったのが、マンデラ氏が戦略や軍事関係の読書に励むなかでクラウゼヴィッツの「戦争論」を読み込んでいたことだった。
「・・プロシアの将軍カルル・フォン・クラウゼヴィッツの古典的名作『戦争論』を読んだ。戦争はべつの手段による外交の継続であるというクラウゼヴィッツの中心的な論点は、わたしの直観とぴったり重なった・・」(同章)
政治目的を達成しえたら武力闘争を停止することを自身への戒めとして忘れないようにする思いとリンクしていたのだろう。ただ、そのマンデラ氏もとうとう逮捕される日がやってきた。先に引用した略歴にあるように当初は5年の刑が、後に国への反逆罪で終身刑の判決が下されることになった。ここに至るまでどのような法廷闘争を繰り広げたかは自伝のなかでも弁護士らしい書き方とその迫力で満ちており、同書の一つの見せ場になっている。だが、もっともこの本の中で読み応えがあり、そして私自身がもっとも読みたかったのが、27年間の刑務所でどのように生きたのかだった。第8章「ロベン島・暗黒の日々」第9章「ロベン島・希望の始まり」第10章「敵との対話」、本全体の四分の一を使ってその日々のことを書き記している。この部分は興味のある方は読まれるのが一番良いと思う。絶望の中でどのように希望と尊厳を保ち歩んだか。独房の孤独、他の囚人との連帯、弑逆と圧政への抗議、学習と外の世界の情報収集、議論と対話、政府との駆け引き、個人としての家族の問題・・マンデラ氏の生きざまを文字面でなぞることができる。なお、氏は43歳で投獄され出てきたときは71歳だった。
歴史がマンデラ氏をどのように評価していくのかはわからない。それは今日も決して安定しているとはいえない南アフリカがもっと落ち着いた先にみえてくるのかもしれないし、それはまだ先のことなのだろう。ただ、私としてはこの自伝を読む機会にあやかれてよかったと思っている。読書中何度も感じた一つには、マンデラ氏の歩みには運命の悪戯としか思えないような災いと、同時にこれは天祐としか思えないような恵みが何度も出てくることだ。英雄らしい生き方といえばそれまでだし、天命を最後まで全うした生き方とも形容できるように感じている。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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