温故知新~今も昔も変わりなく~【第62回】 ひらまつつとむ『飛ぶ教室』(潮出版社,2020年)

子供の頃読んだ漫画で一番強烈に印象に残っているもの。人生そのものを変えてしまった作品。私が小学校4年生のときだった。従兄の家に遊びにいったときに「週刊少年ジャンプ」を読ませてもらった。そのとき連載していた作品に「飛ぶ教室」といったものがあった。1985年24号~38号までの連載で、コミックにすると全2巻の作品でそれほど長い物語ではないが、話の途中から読み始めた当時の私は一気に引き込まれて、従兄に頼んで物語の最初から全部読ませてもらった。恐怖、不安、緊張、絶望、感涙、衝撃、当時の感想を端的な言葉にあらわすとすればこのような感じだ。正直、この物語は少年漫画としてはあまりにもテーマが重すぎたとも思う。ただ、それが故に、大人になってからもずっと私の心の深いところに留まり続けてきた。

物語は198X年、埼玉県の第八小学校を起点として始まる。この小学校には当時、民間防災政策の一つとして核シェルターが試験的につくられていた。今でこそ「米ソ冷戦」という言葉は歴史書のなかにその一つとして埋もれてしまっているが、当時はまだ米国とソ連邦が大量の核兵器をもって睨み合っている冷戦構造が厳然としてあった。第八小学校の生徒たちは皆チョー個性的。やんちゃなタローと食いしん坊のノボルは、校庭につくられて核シェルターに好奇心を抑えきれずに忍び込む。ノボルはシェルター内に備えられていた非常食のカンパンに食らいつこうしていた矢先に、「緊急自動警報装置」のブザーが鳴りだす。


タローとノボルがシェルターに忍び込んだことに気づいた頭脳明晰優等生のサトル、主人公的のおっとりおだやかなオサム、その幼馴染のヒロインみつ子、担任でマドンナ的な北川先生が後を追ってシェルターに入ってきた。警報装置のブザーに驚いたタローとノボルはそこから逃げ出そうとしたときにサトルたちと鉢合わせをする。いたずらを叱ろうとする北川先生に、二人は警報が鳴っていることを必死に訴える。誤報だろうとおもって警報装置の制御盤に近づいてそれを覗き込むと、タイマーが2分を切りカウントダウンをはじめた。鋭敏なサトルがサイレンは誤報なんかではなくて、これは自衛隊から直接送られてきた警報だと北川先生に告げて、可能な限りの生徒をシェルターに避難させることを促す。タイマーの時間は無情にもカウントダウンを続け、皆は限られた時間でシェルター近くの校庭などで遊ぶ子供たちを避難させた。タイマーがゼロを示した刹那、核戦争の意味なども知らない小学1年から6年を含む122人は、強烈なインパクトに襲われた。天井がきしみ、その一部が崩れかかってきたことで核戦争が絵空事ではなかったことを知るのだ。

ミサイルが着弾して都市が灰燼に帰して、人々もまた業火を前に消えゆく絵が当時の私には強烈だった。その瞬間を描くために作者は見開き2ページ全部をつぶして一枚の絵としていた。そして絵は少年漫画にはかなり専門的ともおもえるようなテキストで説明書きが添えられていた。
その部分を抜粋したい。

「現在、ロシアの極東に配備されている核ミサイルは、IRBM(中距離ミサイル)・SS20である。イマン・ビギンの各基地から発射された核は―東京にわずか8分30秒で着弾すると推定されている。米・ロ間の場合、発射から着弾まで27分かかり、その間に警報→避難→シェルター入りできるが、日本にはその時間はなくシェルター建設は、気休めにすぎないだろう。運よくシェルターに入れても都市の大火災は千度以上にもなると予想され、地下5~10メートルぐらいのシェルターでは、むし焼きにされてしまう。また、100メートル以上深い所にあるシェルターでも出入口の確保がむずかしく生き埋めの確立が高い。わずかに地方でのシェルターに生存の可能性があるが、―2週間後、地上に出ても残留放射能と食糧難さらには、零下30~40度と言われる核の冬を生きぬかねばならない。―さらに現在、米・ロに実戦配備されている核の威力はすさまじいものである。1メガトンの水爆の威力は広島型原爆 約70倍、その被害は想像を絶する。-東京に1メガトンの核が投下された場合、落下地点(グランドゼロ)より半径2キロに100万度の太陽ができあがる。この円内にあるものは気化蒸発 半径9キロ以内にいる430万人が即死。長期的には1千万人が犠牲者になると予想されている。全面核戦争が起こった場合、多数の核が日本を襲う。日本中が炎につつまれフォールアウト(死の灰)が降り放射能は大地を長期に汚染する。はたして生存者はいるだろうか。-それは決して起こしてはならない戦争である。が、すでに現在5万発 人類ひとりあたりTNT火薬にして3~5トンの核兵器が存在し、今も確実に増え続けているのである。-」

当時、小学4年生の私にはこの文脈を全部理解することは叶わなかったが、何度も絵と文を見返してはその恐ろしさだけは伝わってきた。なお、この物語は核が落ちてからが本当のスタートなのだ。一カ月間をシェルターで過ごして地上に出た子供たちがみたものは「死と静寂の世界」。核戦争後の世界を子供たちが苦難と試練を前に力を合わせて生き抜いていくのだ。実のところ「飛ぶ教室」は二度と読むことができないと思っていた。コミック本はとっくに絶版になっており、大人になってからは記憶の中だけで生きている作品だった。それがつい昨年に復刊されたことを知った。おまけに作者は連載から35年を経て第二部をスタートさせたのだ。ふだん漫画を読むことはないが、この作品だけは私にとっては別格ですぐにネットで購入して読み返した。

読み返すうちに、少年時代、この物語を読み疑問に思った点を鮮明に思い出してきた。当時、弾道ミサイルの発射を探知する早期警戒衛星などの単語こそは知らなかったが、まともな偵察衛星を当時持っていなかった日本の自衛隊が核発射の情報・インテリジェンスをどうタイムリーに掴むことができるのだろうか? 日本がだめでもアメリカがそれほど親切に教えてくれるのだろうか? 短時間で情報が警報として人々に伝達されるのだろうか? 核に対抗するためにはどのような手段があるのだろうか?このような疑問が沸き立つのを止めることができなかったし、子供ながらにここに強いフィクションと無力さを感じのだ。ネットなどがない時代だから、当時、まわりの大人の何人かに聞いてみた。手っ取り早くモノを知っているはずなのは学校の先生だろうからと尋ねるも、どれも私の疑問にまともに答えてくれるものはなく、なかには話がそれて「北海道にソ連が上陸したら自衛隊は3時間で負けるから意味がない」と「思想」らしきものを強弁する教員もいたものだ。桶狭間の戦いじゃあるまいし3時間で戦いが終わるものかと子供心に思い、これついては結局のところ同級生の父親で自衛隊幹部だった方にいろいろと教えてもらって幼いなりに戦略について一つの知見を得ることになった。

「飛ぶ教室」は私にとって戦争とは何かを深く考えさせる入口になった。そしてそこから派生する戦略や安全保障、軍事問題に向き合い学ぶ導入ともなったのだ。戦争がイケナイということだけ終わらせるのではなく、イケナイことに人がなぜ長年の歴史でたずさわってきているのかそんな哲学的な疑問が次第に生じて、結局のところ「孫子」やクラウゼヴィッツなどに触れる導きとなり、大人になってからはこうした問題で講義を持ち、書籍を書き、研究も地道に続けることになってしまったのだ。思えばその起点は「飛ぶ教室」にあったのだ。そんなことをふと思い出した。そのうち作者に手紙を書いてみよう。ファンレターというにはおさまらないロングレターになってしまうかもしれないが。

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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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