温故知新~今も昔も変わりなく~【第63回】 ショウペンハウエル『読書について(他二篇)』(岩波文庫,1983年)

経験を積んだフリーのあるライターから以前に聞いたはなしだ。どこまでが実態に即しているのかリサーチしたわけではないからよもやま話くらいで受け止めている。その人曰く、今日ではライターという職業は「資格」を特に必要とはせず、自分でライターと称すればよいのであり、ネットのお陰でwebライターの需要も増えたとかで、有象無象がたくさん生み出されているという。ライターの仕事の一つとして、たとえば何かの商材のポイントをクライアントから聞き取り、それを要領よくまとめて、わかりやすく伝えるのであれば、それは資本主義経済のもとでは必要な仕事だとは思う。ただ、中にはひどいクライアントがおり、「なんでも良いからそれっぽく見えるように書いてくれればよい」「質より量でネットに引っかかればよいから、とにかく短時間で仕上げて」などの発注もあるらしい。そうした仕事の多くはかなりの廉価で納期も短く、ライターの側もさして熱意も持たず考慮もせずにテキトーに書き上げてしまうとのことだ。

かつて紙がなかった時代は、竹簡(竹で出来た札)などに墨字を書きつけたもので記述できる量は知れていた。紙が発明されても印刷技術が発明されるまでは、本は写本が用いられてそれは大変に貴重な代物だった。印刷技術が普及すると本が次第に廉価となり、書き手も読み手も大いに増えて人間は文化教養を培ってきたはずだ。さて、ネットが当たり前となり無尽蔵の如きその空間では、何か一つの物事を検索しようとすれば玉石混交で莫大な情報がむきだしとなる。このことの帰結はいまのところは分からない。ただ、考えてみると無制限のように書ける環境があり、それを自由に使えるとしても、それを供給する側、書き手側のクオリティがそれに追いつくかどうかはいろんな事情があるものだ。そんなことを思っているうちに、ふと、ドイツの哲学者、ショウペンハウエルの一冊を思い出した。ショウペンハウエルといえば、その主著「意志と表象としての世界」が有名であり、このテーマゆえにとっつきにくい印象がある。だが、彼の著作には平易、簡潔でありながらとても辛辣、鋭利なものもあるのだ。岩波文庫から出ている「読書について・他二篇」がその一冊だ。この本の中には、「読書について」以外に「思索」「著作と文体」の短編二編が組み込まれている。どれも斜め読みできるし、真面目に読むこともできる。「著作と文体」は冒頭でこんな書き出しではじまる。

「まず第一に著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書く者と、書くために書く者である。第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験をつんでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らは書くために考える。彼らの特徴は次の通りである。彼らはできるだけ長く思想の糸をつむぐ。真偽曖昧な思想や歪曲された不自然な思想、動揺常ならぬ思想を次々と丹念にくりひろげて行く。また多くは偽装のために薄明を愛する。したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。そのため我々はただちに、彼らが原稿用紙をうずめるために書くという事実に気がつく」


ショウペンハウエルが活躍したのは19世紀だが、この書き出しは現代においても鋭い刃を突き付けてくる。第二のタイプによって書かれたものをネット上から仮に削除したとすれば、全体で物理的にどのくらいの分量がその空間から減殺されてしまうのだろうか。ところで、本来、何かを書くためにはそれ以前に考えねばならないのだがここらについて語るショウペンハウエルが面白い。常識的な感覚だとモノを書くためには、まずはそれにまつわる本を何冊も読むのが定石だろう。だが、彼は作品「思索」でこう喝破するのだ。


「数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。・・・ところで読書と学習の二つならば実際だれでも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。つまり思索はいわば、風にあやつられる火のように、その対象によせる何らかの関心に左右されながら燃えあがり、燃えつづく。この関心はまったく客観的な形をとるか、ただ主観的な形をとるかのいずれかであると言ってよい。主観的関心が力をふるうのは我々の個人的な問題に限られ、だれでもそのような問題には当面する。しかし客観的関心は、思索を呼吸のように自然に行うことができるほど天分に恵まれた頭脳に特有のものである。この種の人はごくまれである。ほとんどの学者がめったに豊かな思索の例を示さないのもそのためである」


私自身のことをつとめて正直に思い返せば、学生時分には多読乱読に明け暮れたともいえるが、思索についてはきわめて不十分であったと思う。もっと素直にいえば思索するだけの力がとてもなかったのだ。ただひたすらに、多くの本を読むこと、それによって知識量を増やすことへの情熱が強く先走り、議論を迫られたときも権威と呼ばれる先生方の知識を巧く引用して適当に煙に巻いた記憶がある。そんな読書の仕方に変化が現れたのは多分30歳を過ぎてからで、モノを書く、本を出す、人に教える機会がはからずも自らに肉薄してきたことによる。書くために書く(考える)、金銭のために書く(考える)、地位や名を目指して書く(考える)、いずれも当てはまらなかったのが幸いだったようだ。縁と運と偶然の代物としかいえないが、執筆や講義の依頼は私にとっては受動的な流れでやってきたものだ。ただ、このことが起点となり、私にとって思索することは、個人的かつ主観的な問題としては考えずに、どこか客観的な関心でスタートを切ることになった(それが充分にできたとはいわない)。
そんな過程のなかでふと思索について気づいたことがある。たとえば、多くの文献を前にして、それぞれの文脈を互いに比較考量していくことによる思索は、言葉で言葉を手繰るどこまでも精緻な世界に入りこみ、枝葉をきれいに剪定するように論理を磨くことができ、結果的に多くの「注釈」を生み出すことはできる。もう一つは、表現し難いのだが、言葉で言葉を手繰るのではなく、ふとした刹那に直観的にわいてくる未だ得体の知れないものを、自らがもっている言葉やボキャブラリーに便宜的に載せていくような思索の仕方で、こちらは結果的に何が生まれるかわからない。これらはどちらも必要なことであるとは思う。ただ、私個人としては前者よりも後者のほうがより一層知的エネルギーを要求されるとは思うし、どこか尊いことだと感じるのだ。もっとも後者を表現するために言葉と文脈にどうにか置き換えてみても、周囲に理解されるとは限らないのも事実だろう。たとえば哲学者西田幾多郎などはそんな人で、「善の研究」などもそうした作品だと思っている。周囲に理解されやすいという意味では、前者の手法を用いて体裁をそれらしく整えたほうがスマートかもしれない。そうしたものは常にたくさんあるのだ。ただ、前者の手法に巧みに通じた人間が、言葉で言葉を手繰り、論理を駆使することに長けた人間が、後者の価値をしっかりと理解できるとはまったくもって限らないのだ。なお、ショウペンハウエルは、「読書について」で次のことをいっており最後に引用して今回は終わりにしたい。私自身も来し方行く末を考えるうえでどこか身近にとどめ置きたい一文だ。


「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく」


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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