論語読みの論語知らず【第78回】 「質 文に勝てば、則ち野」

2月10日付のニューヨークタイムズ紙に興味深い記事が載っていた。それはイスラエルの話なのだが、わりとよく報じられるイスラエルとパレスチナ自治政府の確執などではなく、イスラエルが国内に抱える特殊事情がコロナ禍によって変化が生じていることを報ずるものだった。日本の多くの人がユダヤ教について縁もゆかりもなく、ユダヤ教について何か具体的にイメージすることは難しいかもしれない。そうした意味ではイスラム教のほうが報道される分だけ具体的な何かしらのイメージを持ちやすいだろう。


さて、イスラエルは宗教の自由を認めているなかで、人口の8割近くがユダヤ教とされる。このユダヤ教も様々な宗派に分かれるのだが、その中のひとつに「超正統派」と呼ばれるものがある。英語表記だとウルトラ・オーソドックス、ヘブライ語だとハレーディ(ハレディーム)と呼ばれる。この文字からある程度想像できるが、ユダヤ教の教義と伝統を厳格に守る人たちを指し、その外見的な特徴の一つとして黒い帽子に黒いスーツを着てもみあげやヒゲを伸ばしている男性たちのことをあげれば思い出す人も多いだろう。


この「超正統派」は実のところ人口の1割くらいを占めている。どのようなライフスタイルかといえば、同じコミュニティに住み、ユダヤ教の教義を経典に即してじっくりと学ぶ一方で、現代の教育システムに組み込まれることに拒否的なのだ。たとえば、学校にPCがあってもネット環境などは不必要なものとみなされて接続されていないこともあり、そうした限られた教育を受けた帰結として就労のチャンスも狭くなる。(実際に就労せずに政府からの補助を受けて生活するケースもある)。超正統派で育つ子供たちの中には携帯なども触れずに育つ者もいる。ただし、記事によるとこれまでの事情がコロナ禍において変化が生じていると報ずる。


コロナはイスラエルもご多分に漏れず流行した。政府は厳しいロックダウンを行い対処しているが、このことが超正統派のライフスタイルを制限して自然と変化を促す格好になった。これまでは当たり前のようにそのコミュニティで、伝統と教義と律法に従った日常を生き、どこかいうなれば互いに監視しあい、現代のことを二の次に過ごしてきたのだが、ロックダウンがそれを難しくさせた。超正統派出身の21歳の若者はとても息苦しくもあったが、それでも当たり前だと思っていた日常生活が、ロックダウンにより家にこもるうちに超正統派でいることに疑問が沸き起こってくるのが止められなくなったという。考える時間がたくさんできた上に、それまで仰いできたラビ(宗教的指導者)たちがこのコロナ禍について答えを持たないのに気づき、ついにそのコミュニティを去り現代的な生活を送る道を選んだという。こうしたケースがイスラエルで垣間見える一方で、現代の教育をほとんど受けてこなかった人たちが「世俗」で生きる知恵や知識が足りずに困難に直面しがちであると報じている。こうした問題の専門家は超正統派からの離脱は結局のところこれまでの日常生活が壊され、相互監視が緩み、そして何よりも自らのことを自問自答する時間が増えたことがその要因としている。私はこの指摘が実のところ深い問題を孕んでいるように思うのだ。コロナ禍において「超正統派」としてのカタチを守る日常生活が受動的にとはいえ制限されたときに、ひとたびそのカタチから離れてみるとそれを守るまでもないと感じたものが少なからず出た。記事ではこのカタチから離れたものたちが、ユダヤ教に対する信仰を失ったかどうかについての言及はないが、もしカタチを厳密に守らずともその中身や本質を失わないとのことであれば、カタチを厳密に守る意味と価値はどこにあるのかと問われてもおかしくない。


こうしたことは日本の伝統仏教や寺院(檀家制度に基づく)なども少なからず無縁でもいられないとも思う。江戸時代に統治システムの一環として檀家制度が出来上がり、人々はどこかの寺院に檀徒として組み込まれた。それ以来、毎年お盆になるとお坊さんが家にやってきて経上げをし、法事、葬儀なども基本は檀那寺にお願いすることが当たり前となってきた。もっとも日本の檀徒(信徒)はほぼ全ては、ユダヤ教の超正統派のように厳しいものを求められることもなく、寺院の側も僧侶自身が戒律にゆるいところがとても多く、両者互いに持ちつ持たれつの関係でやってきていた。ただ、ゆるく続いてきた制度でさえもコロナ以前から少しずつほころびが生じてきていたし、都市部などでは檀家が自然消滅していく流れもあった。これまで当たり前だったお盆の経上げなども最近ではコロナを理由に檀家から拒否され、法事や葬儀を営むことも難しくなったと一部の声を聞いている。無論、長年、日本に根付いてきた檀家制度がいきなり消滅することはないだろうが、コロナ禍によってあたりまえだったお盆、法事、葬儀にまつわる行事などを必ずしもそれなりのお布施を包んでまでして檀那寺に頼む必要もないと考える気運などが出てきてもおかしくないとも思う。ちなみに、日本の歴史のなかで墓を持ち先祖供養をしっかりするようになったのは近世以降といってもよく、平安時代よりまえとなれば、さほど墓や先祖供養などもっとゆるかったのだ。そうした意味では精々この数百年間で出来たシステムでしかないのだ。


あらゆるビジネスがオンラインに何かしらの可能性を見出しているし、寺院とてその例外ではなくオンラインで法事、葬儀、法話といった可能性を追求することは一つかもしれない。ただし、オンラインはライブに比べてあらゆる迫力が半減する。衣や袈裟、誦経や所作の権威がライブに比べて伝わりにくいのだ。言葉は厳しいかもしれないが、これまでは伝統と格式と所作を背負うことでどうにか格好がついていた僧侶たちならば、油断すると化けの皮が剝がれてしまうのだ。(立派な僧侶もたくさんいるとは信じたい)。オンラインは所詮手段であり、コロナが収束するまでの代替えかつ臨時の手段として割り切って、嵐が過ぎ去るまで変わらないままでいるか、コロナ収束以降は何かを変えなければいけないと今真摯に自問自答して改革に務めるべきなのか、寺院や僧侶も岐路に立っているのではないか。あまりにも伝統に胡坐をかき、形式を提供することで充分としてしまう一方で、社会や人々が深いところで求めてやまない本質や価値を等閑にする。その形骸化が極まりいつかガラガラと崩れてしまったときに、その中身は実のところカラッポだったとなるのは哀しい限りだ。


この形と中身の調和はいつだって難しいのだが、まだ形を辛うじて保っている伝統仏教あたりには大いに頑張ってもらいたいとは思うし、最後に論語の一文を引いて終わりとする。


「子曰く、質 文に勝てば、則ち野。文 質に勝てば、則ち史。文質彬彬として、然る後に君子たり」(蕹也篇6-18)


【現代語訳】

老先生の教え。中身(内容・本音)が外見(形式・建てまえ)を越えると、(俺が俺がと)むき出しで野卑。外見が中身以上であると、(無難なだけで)定型的で無味乾燥。内容と形式とがほどよくともに備わって、そうしてはじめて教養人である(加地伸行訳)


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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