温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第64回】 デヴィッド・ハーヴェィ『新自由主義~その歴史的展開と現在~』(作品社,2007年)

たとえば「何か専門的な問題を世間にわかりやすく伝えてください。」こうした求めがあればどこからか専門家を招聘すればことが足りる。もっとも専門家のクオリティを大いに質す必要はある。今度は「全般的で複雑多岐にわたる問題を懇切丁寧かつ詳細に時間をかけても良いから話してください。」こうした求めならばときに思想家や哲学者あたりが呼ばれるのかもしれない。もっともそれだけ話せる人を見つけるのは大変だとは思う。(なお、自らを肩書で“思想家”と呼ぶ人がその期待に応えられるかは関係ない)。そして、同じく「全般的で複雑多岐にわたる問題をわかりやすくポイントを絞って短い時間で話してください。」こうした求めを聞くと正直なところ危険な匂いとともに個人的には警戒心を強めてしまう。


TV番組などの短い尺ではそうしたことが求められることはわかるが、並のコメンテーターならば本当のところ手に負える代物ではなく、なんとなく適当なことをいってお茶を濁しているのが多い。ただ、そうした全般的で複雑多岐にわたる問題をわかりやすく手短に伝えることを得意と称しそれで人気を保つ人もいる。そうしたTV番組が私の主観だがここ10年以上も重宝されてきたように思う。たとえば歴史や経済にまたがる複雑な時事問題を60分で巧な話術と演出でわかりやすくポイントをしぼり伝える番組などは人気のようだ。私はこうしたものが一律不要や無用などとは思っていない。ただ、本来複雑な問題に対して簡潔にポイントを絞り説明する過程で、実のところ埋没や削除されていくもののなかに、見過ごしてはならないものがあると思うのだ。


こうしたものはショーのようにそのための見せ方に相当の工夫と演出がなされる。視聴する側が違和感を覚えず、喉ごしよく消化不良をさせないために、言葉を変えれば懐疑の気持ちを起こさせて、熟慮するのを回避させる仕組みで構成される。本来、常用される言葉や単語などもその文脈や適用で意味は変わるが、そうした番組ではいちいちその定義や中身などを問うことはしない。たとえば、「国」、「自由」、「市場」、こうした単語のそこでの定義や意味合いなどは短く限られた時間では省みられることはまずない。このあたりに落とし穴があると思うのだ。


前置きが長くなった。コロナ禍以降の世界がどうなっていくのか。このテーマだと抽象度が高く思索も茫洋とするので、もう少し絞ってコロナ禍以降の世界経済はどのようになっていくかというテーマがあるとする。私自身はこうなるはずとのコメントをできるほどの知見はない。ただ、その考えるプロセスについて少しだけ述べたい。TV番組や経済紙、専門雑誌だけでは考える材料が十分とは思えない。こうしたものはどうしても最近の問題に特化してしまいがちだからだ。このコロナ禍で過去数十年の流れを一時的にせよ止めてしまっているならば、この数十年の流れとは何だったのかを振り返って考えるのが定石と考える。私はこれまで読んだ本のなかで考える材料を提供してくれそうなものはないかと本棚をあさってみた。そしてあえて対照的な本を引っ張り出して久しぶりにパラパラと読み返してみた。ひとつは「市場対国家~世界を作り変える歴史的攻防」(ダニエル・ヤーギン ジョゼフ・スタニスロー 日経経済新聞社)、もうひとつは「新自由主義~その歴史的展開と現在~」(ディヴィット・ハーヴェィ 作品社)だ。


前者の本、「市場対国家~世界を作り変える歴史的攻防」は、90年代終わりに日本でグローバルスタンダードという造語が流行ったとき日本でも随分評判をよんだ代物だ。当時、日本の与党代議士で政策新人類などの「異名」をとった人が、この本をほかの代議士にすすめていたニュースのシーンをいまでも妙に覚えている。この本の中身は、経済を効率的に成長させてその結実をうまく刈り取っていくためには、国家が介入することを重視するべきか、それとも市場の見えざる手にまかせてしまうべきなのという対立の枠組みで戦後経済史にアプローチしている。そして、戦後から機能していたはずの国家介入主義は、1970年以降は機能不全となって財政赤字を膨大なものにしインフレを招き、結果として経済成長を停滞させたとしている。そしてこの問題に対する処置対策としては市場化、民営化、自由化、規制緩和であり、これによってインフレは落ち着き、経済成長は回復し、民主主義もより進歩したとの見解だ。この本はいわゆる「新自由主義」という考え方を肯定して礼賛するものであった。当時、この本が出版されて私もすぐに買い求めて読んだものだ。ただ、当時20歳くらいで一介の大学生に過ぎなかった私はこの本を真剣に読みつつ面白いと思ったものの批判的に読み込むまでの力はなかった。今となれば少しは批判的にも読めるようにはなったとは思う。


後者の本、「新自由主義~その歴史的展開と現在~」を読んだのはもっと後で社会人になってからだ。競争原理を推し進めた結果として日本でも格差社会の問題が表出していたころで、おそらく30代前半にこの作品をはじめて読んだ記憶がある。今日パラパラとページを開いてみると、ボールペンや鉛筆で線を乱雑に引いておりこれまでに何度か読み返してきているのがわかる。一言でいえば、この本は「新自由主義」を批判的に捉えている。著者の見解では1978年から新自由主義がその様々な要因で産声をあげて、世界各地で色々なかたちをとりながら浸透してきたとする。この「新自由主義」という考えの背景には、「支配階級」(富裕層など)の権力の復興や創設という政治的な狙いが隠されてきている。新自由主義自体は本来目指していたはずの資本主義発展については成功をおさめたとはいえないが、支配階級の復興については巧くいったとする。


「新自由主義化は、グローバルな資本蓄積を再活性化する上であまり有効ではなかったが、経済エリートの権力を回復させたり、場合によっては(ロシアや中国)それを新たに創出したりする上では、目を見張るような成功を収めた」(「新自由主義~その歴史的展開と現在~」第1章)


この著者が面白いのはこうした「新自由主義」がどのようにして世間の支持を受けるに至ったかを綿密にアプローチしているところだ。作品の中では「同意」という表現を用いているが、新自由主義がいかにして大衆的同意を得たかの考察が興味深い。「自由」という誰しもが同意しやすい言葉の裏に、先にふれた市場化、民営化、規制緩和などがいろいろな「自由」が含まれていた。その自由もいつのまにか「支配階級」にとって都合のよい自由に変化しており、当初の新自由主義のイデオロギーや理論は、実践実行していく過程で支配階級の必要に応じてゆがめられたとする。


「種々の証拠が示しているように、新自由主義的原理がエリート権力の回復・維持という要求と衝突する場合には、それらの原理は放棄されるか、見分けがつかないほどねじ曲げられる」(同書)


この本はなかなか骨太の本だ。私自身が社会人になってから読んだこともあり、複数の線引きの様子をみても、この本を肯定的にも批判的にも両方から読んできている。議論に納得できる部分もあるし、疑問を感じるところもあるがいまでも大いに参考になる良書だと思う。この著者の論に従えば、私がこの世に生を受けてから間もなく「新自由主義」が確実に浸透してきたことになるのだ。さて、これらの本を改めて冷静に読み返しながら、かつて自分が肯定的に感じたことを今度は反省と批判を試み、いまの自分の皮膚感覚も織り交ぜながら、コロナ禍までの経済の歩みを考えてみる。そのうえでコロナ禍以降どうなっていくのかを想像してみるのだ。正直なところおそろしく面倒で時間もかかる。そのうえ考えてみたところで明確なことはいえないのだが、それでもこのように地味に地道に考えることは止められない。時間も労力もかかる割になにかリターンがあるわけではないのだが、少なくとも60分でわかりやすく教えてくれるTV番組に思索することをアウトソーシングする気持ちには目下のところなれないのだ。繰り返すが、一方でこうした番組が不要だとは思ってはいない。ただ、どうしても簡潔に論ずる過程で埋没や削除されゆくものが私は見過ごせないだけなのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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