論語読みの論語知らず【第79回】 「人の生くるや、直たれ」

国全体(政府、軍、国民)で取り組んだ大東亜戦争(太平洋戦争)に敗北した後、戦争はいけませんという思想だけが強くなった。一方で何故敗けたのか、戦略と決断のどこがまずかったのか、もう少し他のオプションはなかったのか、回避できなかったのかといった反省と総括が国レベルでは結局のところなされなかった。このことのボディブローが着実に確実に今になってもきいていると思う。さて、目下のコロナ禍が収束を迎えた後はどうなるのだろうか。批判、反省、検証、提言は大いになされるべきだと思うが、本来ならそれを迫る力になるはずのメディアや野党にどこまで期待できるだろうか。いつのまにか世論を絶対の如く扱い、メディアも野党もそれを批判せずに単純に追認して煽り叩きやすいところを狙い撃ちする行く末はどうなるのだろう。世論なるものがどのように集められ、つくられるかなど大きな問題を孕むのが少しずつみえてきているが、ここに大きくメスをいれるのはどこも及び腰にみえる。間接民主制・代議制民主主義を導入した本来の意味が見失われるとその結末について歴史はある程度教えてくれている気もする。


政治政情について個人を批評するのはこの場ではしない。ただ、ここ最近の緊急事態宣言を再延長するか云々で、色々な意見を聞きつつ総理が最終的に決める「政治決断」(政治的決断)とは何であろうかと改めて思いを馳せている。メディア、野党、与党、国民世論、政府部内、専門家、企業、圧力団体、都道府県首長などが、それぞれの利害関係の立場で百花斉放の如く根拠の有無に関係なくいいたいことをいう。それらを聞いて熟慮の上で総理が政治決断をするというのが表向きの文脈だ。だが、政治決断とはこの国のこれまでの歴史を思い、これらからの歴史を考えた上で、自らの利害関係など捨てて決断しなければならないといった側面があるはずだ。(そのようなことを痛痒に感ずることもなく、たとえば外交についての発言が自家撞着してもまったく気にしなかった総理も歴代にはいるような気もする)。その重圧は周囲からは計り知れないし、その立ち位置にいるものしかきっとわからないのだろう。さて、国会の論戦がこの1年ばかし政治的醜聞を執拗に論うのがすっかり主たる任務になってしまった感がある一方で、目を海外に転ずればコロナ禍によって変わりつつある世界構造がある。ある情報誌で「人民元」についての特集をしていた。戦後長らく続いたドル支配の時代が終わり、人民元の時代が始まるのか否か。人民元は基軸通貨になりえるのかなど様々な角度からレポートしていた。(記事の中では日本はまったくスルーされている)


もう15年以上前に中国に駐在したことがあるが、当時はまだそのような議論がほとんどなされなかった。30年以上も前になると、当時、私は中学生であり教科書地理で習った中国は改革開放路線を歩み経済特区が出来て、農村では「人民公社が解体されて生産請負制が導入されてから、万元戸とよばれる富農が出てきている」といった知識を教えられたが、中国は経済的にはまだまだ弱小国だった。そしてリアルタイムで強烈に印象に残っているのは89年の天安門事件だ。ニュース映像で天安門広場に突入して炎上する装甲車、人民解放軍が一列横隊で学生にむけての一斉射撃と弾圧は子供心にショックだった。この経済改革と政治弾圧の両方の立役者が97年に死去した「最高指導者」の鄧小平だった。大学時代に中国を研究したときに鄧小平にまつわる本をできる範囲で読み漁ったものだ。なお、私は間接民主制がいろいろな問題を生じさせるにせよ日本の現在の政体を概ね良いと思っているし、一方で中国の現在の政体に対しては一片の思いいれもない。鄧小平は良く知られているように3度失脚して、その度に復活し、毛沢東ともときに激しく権力闘争を重ねつつ78年以降は改革開放経済を主導してきた。ただ、鄧小平は常に圧倒的な独裁的権力を握ったわけでもなく、保守派、改革派のそれぞれの狭間で権力闘争を続けながらその地位を保っていたのが実情のようだ。そのキャリアの大きな危機が89年の天安門事件であり、このとき鄧小平は文字通りの政治決断を迫られている。


鄧小平はプラグマティストであり、経済改革の手段としてイデオロギーもその一つの手段として扱いそれがときに党内(中国共産党)の反発を生み出してもいた。日本だと理論やイデオロギーを拘泥する意味合いは今日では分かりにくいかもしれないが、中国などではそれを金科玉条の如く扱わねばならないとする考えを持つ者も根強くいる。鄧小平はそれでもどうにかバランスを保ちつつ政権運営をしてきたが、89年に何万もの学生たちが経済改革だけでなく政治改革を求めて天安門広場を占拠し、自らの忠実な後継者と信じた部下も反旗を翻し、保守改革両方から圧力を受けた際、強い反対を押し切って戒厳令の布告と軍隊による武力鎮圧を実行した。鄧小平は政治改革で自由化を進めることが、経済改革のような成果を生むことなく、むしろ国が混乱して党が政権を失うリスクを考えた。これらの政治決断をするために鄧小平は後に自らの引退カードも巧みにつかって対応している。血の弾圧の犠牲者がどれほどの規模に及んだのかはいまでも不明だが(毛沢東の大躍進運動や文化大革命の犠牲者よりは少ないだろう)、ここで妥協しなかったことが今日の中国経済の規模を生んだという考えも根強くある。この政治決断をするときに鄧小平の胸中にあったものは何であろうか。ところで89年よりも前のことだが、CNNの記者が鄧小平にインタビューをして次のように答えている。

「長年来よいことも少なからずやってきたが、若干のまちがいも犯した」「伝記を書くのなら、よくないこと、いや、まちがえたことも書かねばならない。やはり書かない方がよい」


政治決断に至るまえに、それを可能とするための政治闘争があり、それはときに血で血を洗うような世界だ。鄧小平が生きた時代のそれは我々がドラマや本で知る三国志の世界とたいして本質的には変らないかもしれない。そう考えると彼の国の政治とは恐ろしくもある。それに比べれば日本の政治における政治決断の軽重はどう考えればよいのだろうか。熟慮に熟慮を重ねた上での政治決断だったのだろうか。暮らしと経済にかかわるという意味では同じで、政体や弾圧については異なる。蛇足ながら「蓋棺論定」(がいかんろんてい・棺を蓋うて論定まる)なる言葉もあるが、これらの政治決断の評価が定まるにはもっと時間を要するのかもしれないが、今回の決断のプロセスをしっかりと覚えておきたい。なお、この拙文は「論語読みの論語知らず」とタイトルを打っているので最後に論語から一文を引いて今回は終わりにしたい。


「子曰く、人の生くるや、直たれ。之罔くして生くるは、幸いにして免るるのみ」(蕹也篇6-19)


【現代語訳】 

老先生の教え。人間は生きてゆくとき正直(せいちょく)であれ。それがなくて生きたとすれば、それは幸運にも失敗を免れただけのことだ(加地伸行訳)


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

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