温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第65回】 沖 大幹『水危機ほんとうの話』(新潮選書,2012年)

子供の頃は井戸水で育った。といっても桶でもって自力で組み上げるのではなく、自宅の庭に業者が掘った井戸から電動ポンプでくみ上げる方式だった。小中高と学校では水飲み場で水道水を当たり前のように飲んでいた。そのころは電気代を除けば文字通り水はタダ同然のものだった。米国に留学していたころ、環境問題を専攻とする少し変わった友人がおり、彼は水道の蛇口を少しでも閉め忘れると、飛んできて水を無駄にするなと注意してまわるタイプの男だった。少々度が過ぎると時折口論になった。コスト的な観点から無駄にするなというのはわかるが、ここで水をわずかにセーブしたところで他の地域や国の水不足が解消するわけでもない。そこまで神経質になるような話ではないと反論したものだ。頑固な男だったので最後まで分かり合えることはなかった。


卒業し就職してからまもなく水資源や環境が厳しい地域にいくことが度々あり、そこで水のありがたさが身に染みることがあったが、東京に戻ればいつの間にか当たり前のようにペットボトルの水を飲んでいた。考えてみるといまでは水道水を直接飲む機会はほとんどなく、ペットボトルの水を買い求めて消費するのがライフスタイルになっている。(自宅はともかく、オフィスビルなどで公共の水飲み場などのアクセスはほとんどなく、代わりに自販機やコンビニが溢れかえるので自然とそうなる)水道水とペットボトル水、いずれにしても日本でふつうに暮らしていれば水に困ることは実感しない。ただ、実感しないからといって水にまつわる問題がないわけではない。水を切り口に色々な問題を考えてみようとしたときに何か良い本はないだろうか。いろいろと探しているうちに一冊の本をみつけた。


「私は「水文学」の研究者である。「水文学」は「すいもんがく」と読む・・・ここで取り上げるのは、読めば儲かったり、健康になったり、あるいは危機や困窮を余儀なくされる危険性を警告する話ではない。しかし、一読していただければ、水から、地球環境と人間社会のある側面がわかった気になることは間違いない・・」とのまえがきからスタートするのは「水危機ほんとうの話」(沖大幹・新潮選書)なる本だ。この「わかった気になる」という表現がジャブなのかどうかは知らないが、「すいもんがく」という聞きなれない用語にもかかわらず成人文系向けに書いたとするこの本は非常にわかりやすく読み応えがあった。シンプルに基本的なポイントを提示してくれた上で、その背景や理屈を懇切説明してくれているのだ。「地球の水はいつかなくなるのか?節水はすべて善いことなのか?植樹で洪水・渇水が防げるのか?外資が水資源をめぐって日本も戦争に巻き込まれるのか?」など世間の思い込みや誤解を科学者としての立場を守りつつ展開する。


本書のなかで私が認識を深めたのは沖先生がいう「水は地域的な(ローカルな)資源である。だからこそ愛着が湧く」といったポイントだった。常識的に知られているともいえるが、水そのものの値段は安い(ペットボトル水は除く)。安いということはコストをかけて輸送するのが難しい。水資源は偏在しており、ある地域では水余り、他の地域では水不足がおきるが、右から左に水を運ぶことはできないのだ。


「流域を越えて運べない、貯めておけない、という水の基本原則は、水をローカルな資源に特徴づける。北海道にどれだけ水がふんだんにあっても、渇水で苦しむ四国や沖縄にとってはないのと同じだし、シベリアやアラスカでどれだけ水に余剰があっても、水の絶対量が不足している中東の国々には関係ない。多額のコストをかけて運ぶくらいなら海水淡水化プラントを建設した方が相対的に安価に安定して水を得ることができる。また、ローカルな資源だからこそ、水資源に対して我々は特段の愛着、所有意識を持ち、流域を越えて水を輸送分配するような水利用には感情的な反発を覚えるのかもしれない」


本書が述べるように確かに水は物理的に遠くに運ばれるイメージはない。タンカーに飲み水を一杯にして運ぶなど考えられないのだ。したがって水不足などに直面している地域では、その地域周辺で貯水施設や水輸送施設などの社会的インフラをつくる必要に迫られるが、それも結局のところお金がなければできないのであり、富の偏在がそれを難しくするのだ。(なお、ペットボトル水と水道水の価格差は前者が後者の1000倍くらいになるのを知って驚いた)


本書はさらに仮想水貿易(virtual water trade:VWT)のことについても詳細に展開している。

「・・このVWTに対するアラン教授の考え方は明快で、食料の輸入は水を仮想的に輸入しているのと同じである、という意味であった。輸入した食料を、もし自分の流域で作ったとしたら本来必要であった分の水資源が節約できるので、食料の輸入は水の輸入のようなものだ、という本来のVWTの考え方は水資源需給を分析する立場からみた食料貿易である・・」


水問題についての別の本からのデータだが、パン一枚を作るのに96リットル、米一合なら555リットル、鶏肉1キロなら4500リットル、豚肉1キロなら5900リットル、牛肉1キロなら2万600リットルの水が必要になるとのことだ。日本の食料自給率をカロリーベースで40%程度として考えると、食料輸入は640億トンの水使用を国内で節約していることになる(輸入していることになる)。日本はわりと水資源に恵まれているイメージが一般的には強いが貿易が成立しているから故という側面はあるのだ。ただし、この本の著者である沖先生はVWTが多いからといってそれが悪いなどとは言わない。


「利用している水の量、VWTが多いからといって、必ずしもそれが悪い、というわけではない。そう主張するつもりはないのだが、水は使わなければ使わない方が良い、と無条件に思ってしまうのが、少なくとも日本では普通の感覚のようだ。これもまた水の七不思議のひとつである。そもそも、VWTが悪いのではなく、世界の水危機が問題なのであるし、VWTがなければ日本には問題が波及しない、というわけでもない。さらに考えてみれば、グローバリゼーションに伴う交易によってモノやサービスで密接に結び付いた現代では、水だけではなく、土地や労働力、大気や時間など我々は遠くの見知らぬ様々な資源に支えられている・・・」


沖先生はなにが正しいという発言には極めて慎重な態度をとる。VWTが多いからといってグローバリゼーションに疑義を安易に唱えるようなことはしない。科学とは中立であり、どういった政策をとるべきかについては損得勘定、優先順位、価値判断が入るので一科学者や研究者が特定の政策を打ち出すのは難しくもありするべきではないと述べる。私としては科学が常に中立であるとは思わないが、この沖先生の思いはひとつの態度表明として真摯に耳を傾ける部分があると思うのだ。話は少し変わるがコロナ禍における一連の政策決定プロセスはどうなのだろう。医者、学者、サイエンティストが特定の政策決定のために体よく利用されていないだろうか。専門家の有識者会議が厳密にどのような議論がなされているのか細かくフォローしていないが、最初から結論ありきの問題に箔をつけるようなものになってないだろうか。「有識者会議」、「専門家会議」、「分科会」などを組織論的なもので線引きするとしっかりと機能しているように見えるが、これらを構成するメンバーがいかなる態度で議論に臨んでいるかが見えなくなるのだ。余談だが戦争・武力戦において、それが戦術から作戦、作戦から戦略レベルになるにつれて、いわゆる「純軍事的決断」など不可能になる。(純軍事的決断=政治・経済・外交などの要素を除外した純粋に軍事的な視座だけで行動を決定すること) ここから敷衍すればいかなる物事にせよ人間が関わることは「戦略レベル」で決断する際に一つの要素の配慮で決め切ることなど不可能なのだ。だからこそ個々人がいかなる基準で臨むか態度表明が大切になる。話は逸れてしまったが、水といった一つの資源から世界を理解するアプローチは私にとっては新鮮であるし、今後ゆるされる範囲で学んでいきたい。そのための入門書としてこの本はとても良いと感じた。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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