論語読みの論語知らず【第81回】 「小人は長たらんとして戚戚たり」

取引先の人があるネット記事を転送してくれた。記事のタイトルは「映画を早送りで観る人たちの出現が示す、恐ろしい未来」で、ライターの稲田豊史さんという方が書かれたものだった。タイトルが示す通り、動画配信サービス内で映画やドラマを倍速機能や早送りをつかって観る人が増えており、その傾向を問題として捉えるのが記事の基本的なスタンスだ。そのように観てしまう側の言い分は「全部を観るのはまだるっこしい」、「ストーリーだけわかればいい」、「特定の主人公のシーンだけ見ればよい」、「話題についていくためあらすじだけ知りたい」、など色々だ。


こうなってしまった理由の一つは映像作品・コンテンツが供給過多になったこと、観る側が「時間的コスパ」を求めるようになったことなどをあげている。記事では、たとえば早送りされてしまった10秒間にも映像作品は様々な演出がなされており、会話がないシーンにも物語の伏線になるメッセージが含まれているものだし、それらを無視してしまうのはもったいないと批判をしている。


この記事の主旨に理解も賛同もある程度できる。ただ、一方で私自身も作品によってはやはり早送りをして観てしまっているのも正直なところだ。本も供給過多といえる今日では、作品によって速読、精読をある程度使い分けざるをえないように、映像作品もやはり同じ理屈が当てはまると思うのだ。ただし、映像作品によっては細かなシーンにこだわりや面白味を感じさせるのもある。ストーリー的にはイマイチでも、そういうシーンがあるだけでつい見返してしまう映画などもある。


私のお気に入りでいえば、米国の俳優ロン・パールマンが68歳のときに演じた映画「殺し屋」(原題「Asher」)がある。老齢に差し掛かった孤独な殺し屋アッシャーは「仕事」に行くときはジャケットを着る。そしてアパートを出る前に必ず丁寧に革靴を磨くのを習慣にしていた。このシーンが映画の冒頭で流れるのだが、薄暗い部屋の中で男がガスコンロの炎で炙ったクリームを靴に塗り丁寧に磨いていく。靴のエッジにも忘れずにブラシでクリームを塗り磨き上げていく。手つきは職人のようで長年の習慣を物語る。ただ、靴ひもはつけたまま磨いていた。(本当に丁寧に磨くなら靴ひもは外して磨くものなのだ)。磨き終えた靴を履いた男はしっかりと靴ひもを縛り上げて、カメラはその刹那に引きの画となり男の全貌が明かされる。巧いイントロの入りだなと思うし、靴磨きも職人のように丁寧さをみせながらも一部を端折り武骨さも演出していた。セリフはなくとも「殺し屋」を「職業」とする主人公の男の性格を巧みに暗示するシーンだ。革靴を履き磨く習慣のある男性なら何かを感じるだろう。(映画の内容全体が面白いかは別の話)正直、誰がこうした演出を考えたのかまではまったくわからないが、作り手側の思いは伝わってきた。


さて、記事の話にもどるが映像作品が供給過多であり、供給する側もコスパを求めている中で、早送りせずに細部も含めて鑑賞できるような作品がどれだけ今日あるのだろう。靴磨きのシーンを一つとっても観る側にぐっと感じるような演出をする能力ある作り手がどのくらいいるのだろう。(もしくはそれを考える時間を与えられるのだろう)そのような疑問を持ってしまうのだ。供給過多に比例して明らかに雑でテキトーな演出がなされた映像作品が増えたのが昨今だと感じている。故に、需要する側、観る側もそれ相応のやり方で向き合っているだけにも思うのだ。


もっともやはりそのような倍速や早送りだけに慣れてしまうのは問題だとは思うし、じっくりと鑑賞するに値する作品がたくさん埋もれているのも事実だろう。どうすればよいのかに正解はないが、たとえば映画を楽しみながらも何かを学ぶような姿勢も一つなのかもしれない。定額払えば見放題となれば作品はただの消費対象で時間潰しになりがちだが、そうではなくアートに値するものを見出すべく向き合い、そしてそこから学び取っていく姿勢なのだ。そのようにメンタルスイッチを切り替えると靴磨きのシーン一つから見えることもある。人からみて見栄を張るための靴磨きなのか、自分の「仕事」と真摯に向き合うための儀式や作法としての靴磨きなのか。そんなことを感じ取れるような鑑賞の仕方も一つかもしれない。


ただし、蛇足ながらだが、そもそも靴など磨かないし、面倒だし、そんな時間もないといわれてしまえば私には返すコトバは見つからない。結局のところは映画を観る側が倍速や早送りを使用するのが問題ではなく、それらを自由に使いつつも観る側のアートに対するスタンスや態度が問われているのを知っていれば良いと思っている。論語の次の一文が脳内に浮かび来たので記させて頂く。


「子曰く、君子は坦たらんとして蕩蕩。小人は長たらんとして戚戚たり」(述而篇7-36)

【現代語訳】
老先生の教え。教養人は公平であり、ゆったりしている。知識人は他者よりもまさろうとしてこせこせしている(加地伸行訳)


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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