温故知新~今も昔も変わりなく~【第75回】 モンテスキュー『法の精神』(中公クラシックス,2016年)

「多様性と調和」自体は結構なことだ。ただ、我々自身が何者であるかについて「軸足がぶれる」「腰砕けとなる」「根無し草になる」といったことであれば、「多様性過ぎて不調和」、文字通り過ぎたるは猶及ばざるが如しとなる。昨今の情勢のなかでオリンピックの是非を巡って世論は大きく割れたが、民主主義に生きる以上はときにこうしたことは当たり前だろう。一点だけ気になっているのは、政府、マスメディア、世論(ネットを含む)がそれぞれ分断され、コミュニケーションが成立しにくく、互いの言葉が届かずに不信を交感する部分が増しているようにみえるところだ。


日本は民主主義国家であるが、その基本は間接民主主義である。中学時代にテストのために暗唱することを実質的に要求された憲法前文において「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・」と明記されているように、主権者たる国民がその代表者を選び出し、その代表者は人格見識ともに優れており、国政を担うことが期待されている。換言すれば、国民は自らですべてを統治する直接民主主義ではないのだ。私個人の記憶になるが中学、高校あたりの授業において、本質的に直接民主主義を支持するルソーの社会契約説を引っ張り出してきて、本来であれば直接民主主義が好ましいのだが、今日の国家や人口の規模からそれが難しいので、仕方なく間接民主主義を導入しているのだといった論を張る教師が多かった。


当時、私が接した教師たちがルソーや憲法をどの程度学んでいたかは、今となってはもうわからないが、この論法は教師個人の意見ではあっても、少なくとももう一つの事実を説明していなかった意味では不誠実だ。憲法の原案を作ったGHQ民政局のスタッフは、アメリカ合衆国憲法の解説本として扱われる『ザ・フェデラリスト』を参照にしたのはよく知られている。このなかで直接民主主義のデメリットと間接民主主義のメリットに言及しているところがある。そこでは間接民主主義においては、「・・・世論が、選ばれた一団の市民たちの手を経ることによって洗練され、かつその視野が広げられる。その一団の市民たちは、その賢明さのゆえに、自国の真の利益を最もよく理解しうるのであり、また、その愛国心と正義心とのゆえに、一時的なあるいは偏狭な考え方によって自国の真の利益を犠牲にするようなことが最も少ないとみられるのである。このような制度の下では、人民の代表によって表明された公衆の声のほうが、民意表明を目的として集合した人民自身によって表明される場合よりも、よりいっそう公共の善に合致することが期待されるのである」(『ザ・フェデラリスト』)とされる。


なお、この『ザ・フェデラリスト』自体は、フランスの啓蒙思想家モンテスキュー(1689~1755)の『法の精神』をベースにしている。学校の授業で登場するモンテスキューは立法、司法、行政の三権分立を説いたといった部分がメインで、これ自体は間違ってはいないが『法の精神』がそのことを論ずるまでには様々な前提や展開があるのだ。『法の精神』の前半はそれほどわかりやすい展開ではなく、モンテスキュー自身による法をどのように理解するべきかの講釈からはじまる。法とは「事物の本性に由来する必然的関係」と定義し、そこから云々といくが、このあたりはそれほど面白味があるわけではない。ただ、読み進めていくと徐々に民主制、貴族制、君主制、専制などの各政体論と法の関係、またそれぞれに求められる資質などについて展開されていく。そのなかで第八篇「三政体の原理の腐敗について」の第二章「民主制の原理の腐敗について」には辛辣な文言がある。


「民主制の原理は、人々が平等の精神を失うときのみならず、極度の平等の精神をもち、各人が自分を支配するために選んだ者と平等たろうと欲するときにも腐敗する。そうなると人民は、自分が委任した権力すら我慢できず、元老院に代わって審議し、執政官に代わって執行し、全裁判官を罷免し、なにもかも自分自身でやろうとする。共和国にはもはや徳性は存在しえない。人民は執政官の職能を行なおうと望む。だから執政官はもう尊敬されない。元老院の審議はもう重みをもたない。そこで人々は元老院議員にもはや敬意を示さず、・・・・」


モンテスキューが生きた時代の制度や役職からの用語を現代に該当する言葉に置き換えて読めば、その言わんとすることは十分に理解し得る。ただ、彼は「人民」は代表を選出する能力はあっても、自らダイレクトに統治を行う能力はないとし、加えてただ煽動するだけのポピュリスト政治家によって専制へと陥っていくリスクを直接民主主義が孕むものとの厳しい前提がある(この古い時代から我々がどのくらい進歩できたのか、意見は人それぞれだろう)。
なお、よく使われる三権分立について説いた部分は、第十一篇「国家構造との関係において政治的自由を構成する方法について」の第六章「イギリスの国家構造について」あたりとなる。この部分も立法、司法、行政の三権分立が教科書のようにシンプルに書かれているわけではない。イギリスの立憲君主制、その実態としては君主制、貴族制、民主制が混合している政体において3つの権力が互いにバランスを取り、暴走しないように維持する視座から歴史なども踏まえつつ論じているものだ。


さて、モンテスキューに限らず西洋の様々な政治思想をブレンドしてつくられた憲法の下、間接民主主義を続ける選択をするならば、国民と国民の代表者とのコミュニケーションが分断されず交互に成立し続けることが必要な条件となる。それは結局のところ言葉を通じてのものになる。したがって、国民の代表者で構成される政府は言葉を丁寧かつ大切に使い論議を重ねて発信し続ける義務があり、国民の側も同じことが求められる。ただ、論議ではなく、互いにあげつらいと放言ばかりで建設的な論議がなされなければ、それこそ本当に危機となっていく。国民の代表者が世論の分断にどう向き合うのか、私は一国民として国民の代表者が深い敬意を受けられる存在であってほしいと何時だって願っている。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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