論語読みの論語知らず【第90回】 「三人行けば、必ず我が師有り」
ローマの将軍から陰謀によって一介の剣闘士に身を落とされての闘いを描くラッセル・クロウ主演映画「グラディエーター」。リドリー・スコットが監督を務めた映画であり、その評価は高い。ここ数十年で歴史の研究が進むにつれて剣闘士の実態が徐々に判明してきている。円形闘技場(コロッセウム)で大勢の観客が見物するなかで闘う剣闘士の出自は、犯罪者や戦争捕虜が罰として強制された者は少なく、その多くは今日でも人々を熱狂させるボクサーや総合格闘家のようなプロ闘技者であったとの説が有力になっている。
剣闘士のはじまりは紀元前300年くらいにまで遡り、葬礼で死者に捧げるひとつの儀式としてはじまり、当初は犯罪者や捕虜が参加させられたようだが、時の経過とともにローマ全土に雨後の筍のごとく闘技場が造られ、人々のエンタメとなるにつれて訓練を積んだもの同士が闘うプロ競技へとなっていく。
剣闘士の勝負時間は10~15分程度が通常であり、その装備もローマ軍団の兵士たちのものとは出で立ちが異なる。ローマの兵士たちは甲冑、盾、剣を合わせて25kgを超える装備重量となったが、剣闘士たちの装備は兜にフェイスガードを付け顔面頭部など急所の防護をより強化する反面、刃傷を受けやすい剣を持つ利き腕を覆うプレート、腱を斬られ、骨を砕かれるなどで歩行不能になるのを防ぐ脛あて、剣戟を防ぐ盾を持つ以外は生身の肉体をさらけ出すものが多く、装備重量は7~20kgに抑えられたようだ。集団戦闘によって勝つか、個人戦を勝たねばならないかの違いともいえるが、概して動きやすさを重視している。
剣闘士たちは志願者が大半ではあるが、その社会的な地位は低く、基本的には金持ちや試合の主催者などの「資産」であった(ただ古代の奴隷のように鎖や足枷などをはめられることはなかったとされる)。普段は合宿所のようなところで集団生活をしながら鍛錬を重ね、試合に勝てばかなりの賞金を稼ぐことができた。そして、勝ち続けて運よく生きて引退できれば、その後は妻子を持って平穏に暮らすこともできた。円形闘技場での剣闘士たちの戦いはその日のメイン試合であり、それまでは動物同士で闘わせる見世物、剣闘士が動物を狩猟する見世物、そして、犯罪者の処刑なども見世物にしていた。観客を楽しませるために多くの演出が施され、地下から人力エレベーターでの登場や床下から野獣が飛び出す仕掛けなど、盛り上げるため・飽きさせないための工夫がなされていた。
さて、剣闘士同士の試合はどうだったのだろう。使っていた短剣が真剣であったとの意味では真剣勝負だが、そこには暗黙の了解があったという。それは、戦争のように味方と敵といった線引きではなく、互いに協力して見ごたえのある勝負に発展させるといったものだったようだ(それは勝負の流れを事前に打ち合わせして決めるといったものではない)。
観客が息をのむ見せ場の多い展開で勝負をし、互いに命を取り合うことを目的にするのではなく、生き残るところに重きを置くのが「お約束」となる。このように書くと真剣勝負のように見せかけたスパーリングと取られかねないが、実際の剣闘士は10人が戦えば9人は生き残れたが、残りの1人は命を落とすことになる代物であり、これもまた剣闘士を生業とするものたちの暗黙の「お約束」だったようだ。社会的身分は低くとも、命を的にして戦う者たちに常に熱狂的なファンがつくのはいつの時代も変わりがない。アメリカのニューヨーク大学のある歴史学者は「剣闘士は女性ファンを熱狂させるロックスターのようなものでした」ともいっている。
さて、真剣な闘いとお約束とは一見奇妙なコントラスに見えるが、個人戦から拡大して集団や国家レベルにおいてもそうしたものは存在してきている。たとえば、傭兵隊たちが活躍した中世の合戦では、隊形を整えた敵味方が衝突していくうちに、どちらかが隊形を崩して形勢不利となれば、降参して捕虜となり身代金の支払いでもって助命が保たれた(結果的に凄惨な殲滅戦にならず、戦死者を多く出さずに戦いを終えられた)。ではお約束が存在して互いにそれを尊重すれば、戦いが常に激烈にならないかといえば、視座によってはまったく反対のケースも考えられる。たとえば、広島・長崎に原爆が落とされて以降、超大国は核兵器を大量に持ちつつも、互いにそれを使えば共倒れで破滅することから「使えない兵器」であることが「お約束」にもなった(現在では一部でこのお約束を破ろうとする向きもあるが)。他方で核兵器を使わない通常の戦争で決着をつけなければならなった部分があり、その分だけ戦争が局地的には厳しくなったともいえるのだ。ここから敷衍していくと通常の戦争に十分に耐えることができるだけの軍事力や防衛力が営々と求められるのも「お約束」になる。そして、それらの能力を十分保持していると示しえて今度は軍縮などが実現していくのもまた「お約束」となる。
結局のところ、剣闘士、中世の戦い、現代戦などなど、お約束の有無に関わらず戦い・闘いとは本質的に矛盾を孕むものだ。自分たちについては平和と安全が担保されているとの幻想を抱き、外野から傍観者としてそれらを揶揄しているだけならともかく、戦いがこの世から消えたわけではないなかで、当事者として考えればまた違った重みを感じるものだろう。戦いのなかにあるなるべく多くのお約束を感知して、複数の選択肢があることを学習し、その上で何を選択していくべきなのかをそれぞれが考えることが「過ちは繰り返しませぬから」と誓う8月6日の意義のようにも思うのだ。
「子曰く、三人行けば、必ず我が師有り。其の善なる者を択びて、之に従い、其の不善なる者は、之を改む」(述而篇7-21)
【現代語訳】
老先生の教え。自分を含めて三人が同行するとき、必ず自分にとって師となる人がいる。善き人であれば、その善いところを選びとってまねよう。悪しき人であれば、そうならないようにと反省する(加地伸行訳)
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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