論語読みの論語知らず【第92回】 「無為にして治まる者は、其れ舜か」
小学校2年生のときだったと記憶しているが、授業のなかでときどき児童向け教育番組をみせられた。そのなかで流れていた歌に「はたらくくるま」といったものがあった。女性歌手の陽気な声がポップな感じで、「のりもの あつまれ いろんな くるま どんどん でてこい はたらく くるま はがきや おてがみ あつめる ゆうびんしゃ まちじゅう きれいに おそうじ せいそうしゃ・・・」(作詞 伊藤アキラ)と次々と「働く車」を歌い上げていくもので、私はいまでもほとんど諳んじている。
ただ、大人になると郵便車も清掃車も見慣れた社会風景に過ぎないし、いちいち感動や関心を示したりもしない。もちろんこれらがなければ社会はすぐに機能不全を起こすので、その大切さは常識として弁えている。ところが、日本のある町においては「清掃車」(収集車)がまったく走っていない事実を最近あるレポートを読んで知った。「清掃車」が走らないということは、発展途上国のドキュメンタリーでよく映し出される一コマのように町中にごみが散乱山積しているのかと思いきや、その町では事情がまったく異なる。
徳島県にある上勝町では、住民が町に唯一存在しているごみ集積所に自らごみを運び、13品目45種類の分別ルールに従って手際よく捨てていく。生ごみなどは各家庭でコンポスター(堆肥化容器)によって堆肥にされ、資源ごみになりうるものはリサイクルされる。この町のリサイクル率は80%をオバーし、全国平均が19.6%であることを考えれば圧倒的な数字を叩き出している。
ことのはじまりは住民が自らの道徳と良心に基づいて始めたわけではなく、かつてはこの町ではごみのほとんどが野焼きによって処理されていたとのことだ。90年代には環境を巡る諸規制が厳しくなり野焼きを止め、そこから焼却炉を導入するもこれまたさらに厳しくなった法規制により使用を断念せざるを得なくなった。そこで町役場が立ち上がり、住民とコミュニケーションを何度も重ねて、どのようなごみ処理の仕方があるかを試行錯誤しながら今日に至っている。
当然ながら各住民の作業負担が増えることへの抵抗もあったらしく、政策化していくなかで住民のコンポスター購入を役場が補助し、また、集積所で各ごみを分別して捨てる度にポイントが貰え、それによって日用品や子供用品と交換可能とするなどの取り組みを導入している。また、町は資源ごみを売却し利益を住民へ還元することを明確にするなど、この政策を根付かせるべく努めている。こうした成果を重ねて町はごみ処理にかかるコストを60%圧縮している。現在では上勝町は「ゼロ・ウェイスト宣言」(無駄・浪費・ごみをなくす)を掲げ、さらなる具現に取り組んでいるとのことだ。
古代中国の老子が「小邦寡民、十百人の器あれども用うることなからしむ・・」(国は小さく、人口も少ない。文明の利器に恵まれたとしても、人々は見向きもしない・・)と唱え、ここから「小国寡民」を一つの理想社会として描いたことはよく知られている。住民の多くが顔見知りの小さなコミュニティでは、きちんとコミュニケーションが成立すれば物事は治まり、面倒な鯱張った政治的な上意下達などは不要との考えは十分に聞くべき言葉だと思う。なお、老子はこの延長に「自然に帰れ」、「無為におれ」、「人間はあらゆる修為(学問)をやめよ」、などとも説き、これが孔子などと対極的なものとして捉えられる。老子のこうした考え方は一つのアプローチだ。ただ、意外と忘れられがちなのは、孔子もまた政治の在り方の一つとして「無為」に言及をしている部分があるのだ。
「子曰く、無為にして治まる者は、其れ舜か。夫れ何をか為さん。己を恭しくし正しく南面するのみ、と」(衛霊公篇15-5)
【現代語訳】
老先生の教え。自分がなにも動かず、また、しなくても、天下が平和に治まる、そういう政治ができたのは、舜であろうか。舜はなにをしたのであろうか。ただ慎み深くし、正しく王位に即いていただけであった(加地伸行訳)
(舜=中国神話上の五帝の一人。徳治の代名詞的存在)
もっともこの孔子のいう無為の前提には圧倒的な道義的・道徳的存在であることが含まれている。こうした存在が最上位にあってこそ、それより下の宰相以下は「無為」(道義的・道徳的存在)であることから一部免除され、現実的な政(まつりごと)に勤しむことができるとの理屈だ。無論、現実として宰相が無為に過ぎれば政治的な上意下達も機能不全を起こしてしまう。ただ、宰相以下が現実政治に勤しめるのは、その「無為」なる最上位の存在に負うところが実は大きいのではないかと論語は仄めかす。古(いにしえ)の政(まつりごと)における理(ことわり)の上での話しだ。
ところで、日本では現代でも非公式に「お上」(おかみ)という言葉が使われる。いまは政府や各省庁の範疇を指して俗用されることがほとんどだが、歴史的な使い方ではいくつか違った対象や存在を意味してきた。現代の「お上」と呼ばれる範疇の人々が、「無為」(道義的・道徳的存在)なる要素について、多少なりとも持つことを必要条件として考えているかどうかはわからない。もっとも「お上」の範疇の人たちが、「お上」を自称しているわけではなく、ほとんどの場合、一部の第三者がその範疇の人たちを陰で指し示すときに使うに過ぎない。これは使う側の意識にも少なからず問題がある気がするし、相手を「お上」とすれば、自らは「お下々」ということになるのだろうか。これは分を弁えるのとは違うとも感ずるのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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