温故知新~今も昔も変わりなく~【第77回】 諸橋轍次『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』(講談社学術文庫,1982年)

正直なところネット上の辞書辞典を利便性から多用している。何かを翻訳するとき、言葉の用例を知るときなど、よほど専門的なことでなければ書棚の辞典に手を伸ばさなくなった。幼い頃のおぼろげな感性だが、実家の本棚に陣取る国語辞典、漢和辞典などが独特の存在感を放っていた。わからない言葉や漢字があったら、それをひと手間惜しまずに調べていた父親のことを覚えている。


いつからか難しい漢字を使うことを極力避ける風潮がある。情報量が増えたことに比例して大量の文章を消化することを求められるので、読みやすさへの配慮は合理化の一つとはいえるだろう。他方で、それらに慣れ過ぎてしまえば、一昔前の多少難解な漢字や旧字で書かれた本や記録は読みにくくなる。私は古いものを読む機会がわりと多いのだが、ときに難解な文字が出てきたとき最後に頼りにするのは、漢和辞典の極北的存在で「諸橋大漢和」とも呼ばれる「大漢和辞典」全13巻だ。一冊それぞれが分厚く都合すればかなりのボリュームなので、置き場所がなくなるとすぐに「リストラ」の候補に挙がりそうだが、個人的には「非常持ち出し」に指定している。


この辞典を編纂した漢字研究者の諸橋轍次は、1883年、現在の新潟県三条市に生を受けている。東京高等師範学校を卒業した後にそこで漢学の教員を務めるほど優秀だったようだ。漢和辞典をつくろうとした動機の根本は、青年時代に中国に留学した際に、かの地に良い辞典を見出しえなかったことだとされる。諸橋の肩書は文学博士、東京理科大学名誉教授、文化勲章授与、そして、東宮御用掛を任じられるなど経歴は輝かしくもあるが、漢和辞典の編纂はときに東京大空襲や病気による失明の危機などによって阻害され、1925年に始まった作業が全13巻の完成によって終わったのは1960年だった。


諸橋はこの漢和辞典で有名だが、漢学の研究者でもあった諸橋が著した本に「孔子・老子・釈迦「三聖会談」」(講談社学術文庫)がある。このタイトルの通り、孔子と老子と釈尊の3人が架空対話をするのだが、この内容が極めて秀逸で加えて面白くもある。諸橋はこの本を書くにあたって、この試みが「三聖」に対する冒涜になるのでないかと悩みながら筆を進めたと告白している。諸橋は漢学を学んだことから、当初は漢訳されている仏典を十分に理解しえると思っていた。しかし、読み進めていくと漢訳の仏教用語の多くが、漢字の原義と関係なく、近い発音をあてているにすぎず、これが漢字の原義からものを考える習性を有していた諸橋を苦しめたともいう。この本を書き終えるまでに諸橋は執筆自体の中止を一旦決意している。


私個人としては僭越ながら、出来上がったこの本の目次構成を眺め、読み進みていくと諸橋の苦心惨憺を感じられる。内容は対談場所の選定について云々のイントロから入り、「三聖」が登場してまずはそれぞれ嗜好・好ましきものについて話が始まり、生涯の歩みが話され、人生観が語られる。そして、次第に話は深くなっていき死生観につながり、その上で釈尊の「空」、老子の「無」、孔子の「天」へと突き進んでいく。そして最後に仁、慈、慈悲について解き明かされる。「三聖」の対談の司会進行役兼モデレーターとして諸橋自身が「尚由子」の名(号)で参加登場しており、この存在があって「三聖」への問いかけがなされ、対話の温度感が次第に高まり、そして読み手への橋渡しがなされていく。架空対談ではあるが、賓客(ゲスト)を迎えてこのような接遇と対談を運びえたら「一期一会」としてはパーフェクトだなと感じさせるものだ。


読みながらに感じさせてくれるのは対話とは何かということだ。「三聖」はそれぞれの立場や考え方、アプローチの違いを尊重しながら会話を続け、それぞれの共通点と相違点を明らかにしつつ、何が大切とされるべきかを探求していく。このような対話の在り方は、相手をやり込めるだけの論破、言葉尻を捕まえてあげつらうだけの難癖の類のものとは根本的に異なるし、特に現代においては学ぶべき部分だろう。中盤くらいで「三聖」が死生とは何かを巡って対話をしていく部分がある。本書の雰囲気を紹介する意味でも一部を抜粋すると次のようなものだ。


釈尊「いまきみ(尚由子)のいったとおり、人間は元来迷いの多いものだ。迷いから救おうというのが、わたしの根本の願いだ。人の世は、あまりにも悩みが多すぎる。だが、そのなかでもいちばん大きなものは、なんといっても死生の問題だ。そこでわたしの説いた教えでは、死生のことに最も力を入れることになったのだ。とはいっても、わたしは死生論として系統だてて、死生だけを話したことはないのだ。いや、考えたこともない。わたしの一生は、死生の問題の解決に終始したものとみればみられる。だから、きみから死生観を語れといわれても、わたしには特別に語るべき論はない。それでも、といわれるなら、わたしの立志の動機から、さらには教えのすじみちから、広く、しかもばらばらに語ることになろう。それでよろしいかな」


尚由子「それこそ、むしろ望ましいことでございます」

・・・中略・・・


尚由子「ありがとうございます。釈尊の死生観はこれまでといたしまして、次ぎには孔夫子の死生観をうかがいたいと存じます」


孔夫子 「わたしはもともと、人は現実の社会に生まれて、現実の社会に生きておるのだから、現実のことを完全につとめればそれでよい、という意見でね。死後のことは、じつはあまり考えたことがない。かつて門人の子路が突然、「死を問う」といったことがあったが、そのときも、「わたしは未だ生を知らない。どうして死がわかろう」と、こういった。・・・(中略)・・・こういうように死を恐れず、しかも生を大切にしているが、さりとて、もし生よりもさらに大切なものがあるとするならば、わたしはこの生をすてて、それをとる。それは、ほかでもない、人間の道だ。そして、その「道」のためには、一歩も死を避けることはしない。これがわたしの死生観だ・・・」

・・・(中略)・・・

尚由子「よくわかりました。情意かねつくしたありがたいご教訓と心に銘じます。では次ぎに太上老君にお話しをうかがいましょう」


太上老君「わたしは、大自然の理法から人生を見ている。生死などについては、じつはあまり考えたこともないし、口にしたこともない。「死して亡びざる者は寿(いのちなが)し」といったぐらいのことだ。その意味は、ついさっきお釈迦さまが、自分は死んでも法は滅びないとおっしゃったのと同じことで、特別というほどのことではない・・・」


このように尚由子は「三聖」からそれぞれの考え方を引き出すところから始まり、次第に尚由子を越えて、ときに孔子が老子に踏み込み、老子もまた孔子に反問し、釈尊がそれを引き取りさらに深化させていく形で進みゆく。共通するなかにある相違と、相違するなかに隠れている共通を交互に引き出しながら、次第に対話は佳境へと入りゆくことになる。いかに生きるべきかを根本の命題として持ちながらも、アプローチの違いから互いの距離はあまりに遠く感じさせたかと思いきや、次の刹那には互いを身近に感じさせる諸橋の筆力と知力に率直な感嘆を覚えるのだ。


さて、余談であるが諸橋轍次記念館が新潟県三条市に存在している。諸橋の遺品、資料などいろいろと展示されているとのことだが、そのHPを確認すると、「現在、空調設備の故障により冷房を停止しております」とのことだった(なお、三条市は今年8月3日に39.1度の全国最高気温を記録した)。修理完了予定が明示されておらず、それが迅速にいかない理由が何故なのかはわからないが、もし予算上のことであるならば、財政出動のわずかな余波に速やかに預かれないものかと「俗物」的なことを私は考えている。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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