温故知新~今も昔も変わりなく~【第78回】 村井康彦『律令制の虚実』(講談社学術文庫,2005年)

中央と地方といった括り方はもうずいぶんと長い間使われてきている。近年では中央は一極集中や集権、地方は分権や創生といった言葉が付属され、その兼ね合いがこれまた長い間論じられてきた。なんとなく固定化していた中央と地方の関係もコロナを機として揺らぎ、地方が中央を突き上げ、中央はそれに戸惑うような構図が一部垣間見えた。他方でコロナ対策の助成金や給付金を巡って各地方がそれぞれ個別に情報システムを構築してきたことがネックとなり、省庁と地方自治体の間でそれぞれデータを速やかに共有できずに方々で遅れが生じた。さて、デジタル庁が発足し今後年月をかけて中央と地方が個別に管理してきたデータを統一的に扱う基盤をつくる方向となった。「ガバメントクラウド」と呼称される中央と地方が共同で使用するこの基盤は、インターネット経由でデータの管理やソフトウエアの運用を統一的に行うことを見込んでいる。


コロナを折として加速化するこうした動きは、中央と地方の関係性にどのような影響を与えていくのだろうか。行政サービスの効率性を上げるといった意味では改善していくことになるだろうが、他面で何が起きていくのかについての予想は難しい。どれほど優れたシステムも結局のところ使うのは人間であり、そして、中央と地方にある物理的な距離が変わるわけではない。ところで、未来のことは不明だが過去のことはそうではない。そして、私の如きクラッシックな人間は未来のことを想うときに、過去のことへと思いを致しながら、ついつい考えてしまう癖がある。そこから一つ思うのは、日本はそれほど何か一つのシステムに統一して、名実ともにそれを扱うのにそれほど長けた国でもないといったものだ。


もう10年以上前に読んだ本に「律令制の虚実」(村井康彦・講談社文庫)というものがある。この本の原本はさらにだいぶ昔のもので、著者の村井康彦先生は日本古代史を専門とされる方だ。虚実という語感からは実体の有無、うそとまこと、虚構と事実などの範疇で受け止められるのが一般的だろう。「律令制の虚実」というタイトルから、この制度が表向きだけで実体を伴っていなかったというアプローチで書かれたように思えるかもしれないが、村井先生は虚実をネガティブな意味だけでは使っていない。外来のものを導入した日本がそれを建前と本音を使いこなして多元的なシステムをつくり出していく歩みを、日本人の「選択的」「習合的」な態度であったと評している。


同書では6世紀の仏教伝来から始まり、それを渡来人から受容していくなかで天皇や豪族が当初どのような態度をとり、それが次第に変化していくところを論ずる。そして、大化の改新以降、日本は新たな国造りへと向かうなかで律令制の導入と変容、数々の都(みやこ)の遷都とその性質の変化が焦点となる。中学高校の日本史でも平安京と平城京以外にも遷都が何度も繰り返されたくらいは教える。ただ、その都の形が大きく変容していくことについてまでは触れない。大海人皇子と大友皇子の間で起きた壬申の乱のあと、天武天皇は飛鳥浄御原宮を営み新たな国造りをはじめ、それが持統女帝による藤原京への遷都造営へと続くが、このあたりから都の形が大きく変わっていく。大和三山に囲まれた藤原京は初めて条坊制(南北の大路たる坊、東西の大路たる条、これらが碁盤の目状に交差組み合わせられた計画都市)が取り入れられ、中央部の北寄りには宮城がつくられ、そこの中心には朝堂院(南)と内裏(北)が建てられたとされる。そして、この条坊制のなかに豪族たちも在住して官人として取り込まれていくベクトルへ舵をきった(これ以前の都は天皇の居所である宮殿とそれに付属する建屋がわずかにある程度のものだった)。この藤原京が営まれたのは694~710年のことだが、この間にかの有名な大宝律令の制定・施行がなされている。


「日本書紀」の推古三十一年条に「斯(か)の大唐国(もろこしのくに)は、法式(のり)備(そなは)り定れる珍(たから)の国なり。常に達(かよ)ふべし」とあり、唐を称揚して日本は律令を入れるがそれは決して徹底したものではなかった。律令制度の実効性を担保させるために重要な中央官僚を確保する「科挙の制」は整備せず、「宦官の制」に至ってはまったく無視されている。そして、大宝律令でもって成立した形式も、その直後から虚と実を共存させる流れを生み出している。表向きは中央集権国家を形成していく建前ではあるが、その実体としては大化の改新以降打ち出した土地の国有制度などは次々と形を変えていく。三世一身法や墾田永年私財法などがその典型であり、これなどは律令が崩れゆき後に荘園へと続いていく緒として教科書などでは教えている。もっともこの墾田は私有地ではあるが無税ではなく、地方政府たる国衙によって把握課税されており、要はそれまでかなり複雑化していた中央管理の班田制による租税収入だけでなく、別口からそれを補う経済政策ともいえる。ただ、これが後に中央からは統制することができなくなる「受領」と呼ばれる地方官をつくり、中央からあぶれた中下貴族などが地方に赴き、一部の者は勝手次第に苛斂誅求と不正蓄財をしていく流れを生み出したのも事実だ。


律令制の建前では統制するはずの中央といえば、これまた政治制度がその建前とは異なる形が次々と生み出されていく。都では朝堂院と内裏が建物の形として分かれ、天皇の公と私が分離する形をとったが、政治の決定はその私の場付近で執り行われる傾向へと進みゆくのだ。平安京の時代には、大臣公卿などが政治を審議するのは内裏のなかがメインとなっている。そして、「科挙」による天皇直属の官僚が不在にあって、藤原氏などに代表される有力貴族が天皇を支える格好になるが、藤原氏が一時独占した摂政関白などはそもそも律令に定めのない「令外の官」であり、この役職がいつの間にか権力を持つことになった(この摂政関白の権限などは明確に線引きされてもいなかった)。この表向きは定めのない政治機構が常態化して政務が進みゆくことになるが、なお、興味深いのは公卿たちによる会議の進め方である。公卿たちによる会議を公卿僉議(せんぎ)と呼ぶが、この会議は当初、その官位が高いものから順番に意見を述べていくスタイルであったが、時代が進むにつれて逆転し、官位が低いものから意見を述べるというものに変わった。その理由ははっきりとはしていないが、この変化で官位が上のものは自分の順番が回ってくるころには意見は出し尽くされた感があり、これらを巧く取りまとめて己の意見を発すれば良いことになった(つまりは官位が上の者は知的な挑戦を受けなくなったともいえる)。そして、ここでの意見が奏上されて天皇の裁下を頂くことになるが、いうなれば結論は奏上以前に出されており、天皇は「依ㇾ請」(その通りになさい)と承認するのが常となった。


日本だけが特殊というつもりはないが、当初からの建前と本音、虚と実のスペースが次第に離間して、それがあまりにかけ離れてしまっていても、わりと違和感を覚えずに物事を永く進めてしまう文化が強いお国柄だと思っている。論理的整合性を重んじるアプローチからはその矛盾を受け付けないかもしれない。ただ、どうもこの虚と実の許容の範疇を見極めないことには、物事を実現化していくのが難しい国であり、案外そうしたDNAは昔日からのことなのかもしれない。さて、律令を輸入しながらも、それを徹底化するための手段を無視したことを是とするか非とするか、或いは中庸でバランスのとれたものとするか色々と考えは尽きない。そして、冒頭の「ガバメントクラウド」が統一的な運用を目指すなかで、どのような虚と実が生まれ、それがこの国の歴史をどう進めていくのかを考えると関心はさらに尽きない。私の如きクラッシックな人間は過去との兼ね合いで未来を想うのだが、このような極めてアナログな世界からデジタルの世界をみつめる思考方式があってもまあ良いだろう。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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