温故知新~今も昔も変わりなく~【第80回】 小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書,2021年)

ロシア軍の戦略について骨太な研究書といってよい本を最近読む機会があり、その内容が秀逸だった。本のタイトルは「現代ロシアの軍事戦略」(ちくま新書)で、著者は小泉悠氏なる御仁だ。小泉氏は本書のなかで告白されているのだが、ロシア自体にもともと関心を強く持っていたわけではなく、その兵器やロケットが格好良くみえたことが研究開始の原点だとする。ただ、研究者としての意識よりも、「職業的オタク」としての意識をつよく持ち、ロシア軍の兵器、組織、戦術、戦略などに関心を有して、これまでに専門誌「軍事研究」などに論考を寄稿されてきたという。現在は東大の先端科学技術研究センターの特任助教を務められているが、それを機に日本のロシア研究に貢献するべく思いが沸き立ち、ロシア軍の具体的な戦略を論じた研究書が少ないと感じたのが本書執筆の理由とのことだ。


なお、いきなりの余談となるが、小泉氏は略歴によると1982年の千葉県生まれで、私は1976年の北海道生まれである。少しの歳の差と生まれた場所の違いも影響するのか、実のところロシア軍の兵器に対する感じ方は小泉氏と私とではまったく違う。正直にいえば、冷戦もだいぶ終わり頃ではあったが、少年時代の私にとっては、ロシア軍の兵器は恐怖の対象でしかなかった。ソ連を近くに感ずる北海道という土地柄に生を享けたこと、大東亜戦争で祖父がソ連と戦った話をよく聞かされたこと、少年時代によく読んだ小説「ソ連軍大侵攻・本土決戦」(檜山良昭)、漫画「バトルオーバー北海道」(小林源文)・・・自ずとソ連軍に対する警戒心が育まれた。ある日、宗谷・稚内に上陸してきたソ連軍による北海道侵攻。稚内からの国道40号と浜頓別方面からの国道275号が合流する音威子府(おといねっぷ)での自衛隊の迎撃は奏功せずに名寄、旭川が陥落。その後、旭川と札幌の間を一直線で結ぶ国道12号線伝いに、ソ連軍機甲師団のT―72戦車が大量に南下してくるイメージが少年時代の私を捉えて離さなかった。札幌近郊に駐屯する陸自第7師団や第1戦車群の年季の入った74式戦車や当時最新型でまだ少量の90式戦車が善戦するが、ソ連の物量を前に後退を余儀なく・・そうした悪夢もよく見たものだ。したがって、小泉氏のロシア軍の兵器に魅せられるという感覚はなんというか新鮮なものだった。


小泉氏の著書は、物量でもって犠牲を省みずにひたすらに平押ししてくるロシア軍の古いイメージを大きく変えてくれるものだ。本書では冷戦崩壊以降から現在に至るまで、ロシア軍の実戦での戦い方、演習内容、公開情報などの変化をしっかりと収集して分析され、現在のロシア軍の戦略がどのようなものであるかを導き出している。冷戦終了から急激に衰退したロシアの軍事力には昔日の勢いはなく、アメリカ・NATOに比べればそのミリタリーバランスは劣勢ではあるが、それでも安全保障のためにあらゆる能力を駆使して生き残りの戦略を構築しているという。なお、2021年現在、ロシア軍の兵力は実勢で90万人程度、国防費年間で600~650億ドル位であり、購買力平価を考慮すると世界第4位程度である。


こうした数字で表される「古典的軍事指標」では見えてこないロシア軍戦略の指向の一つは、従来からの軍事力を限定的に使用しつつも、サイバー空間、電磁波領域での「戦闘」、相手国の人心を認知操作する情報戦、ポイントでの特殊部隊の活用などを併せたハイブリッド戦争にあるという。ウクライナで起きた一連の政情不安の背景には、このハイブリッド戦争の手段が仕込まれており、ウクライナ内のクリミアへの特殊部隊の速やかな侵入と主要施設の占拠、クリミアの親ロシア勢力を扶植、煽動して独立併合、ウクライナ東部では現地メディアを実効支配して情報操作を重ねてロシア支持の機運をつくり上げて、後にロシア軍を侵入させている。このほかにもサイバー攻撃による電力網のダウン、電磁波作戦能力を駆使してウクライナ軍の通信機能を広く麻痺させその組織的戦闘力を封じることにも成功している。


こうしたハイブリッド戦争においては、従来からの軍事力の動員を減らし、その火力の使用を抑制することになり、熾烈な戦闘を行わずともその政治目的を達成しえることになる。当事者以外からは戦争らしからぬ戦争を見せつけられ、第三国が介入する余地や口実を見つけるのも難しくなる。通常戦力による自らの劣勢を認識したロシア軍としては、ハイブリッド戦争は戦略として追求する価値のあるものとなるのだ。

小泉氏はロシア軍事を専門とするといわれるが、それを象徴するような下りが出てくる。


「ロシアの軍事を専門とする筆者にとって、毎年秋は多忙な季節である。6月1日に始まって10月31日に終わる夏季訓練期間がその半ばに入り、大規模な訓練活動が盛んに行われるためだ。そのハイライトと言えるのが、毎年9月半ば頃に実施される軍管区レベルの大演習である。ロシア国防省の公式サイト、軍の機関紙『赤い星』、国防省系テレビ局「ズヴェズダ」などに膨大な量の情報が掲載されるため、これらをチェックしているうちに1日が終わっているということも珍しくない。我ながらあまり色気のない1日だとは思うものの、そこにロシアの軍事戦略を考えるヒントが多分に含まれているために、演習ウォッチは毎年続けている」(『現代ロシアの軍事戦略』第4章より)


こうした地道かつ不断の作業があってこそ立派な研究が成立する証左だとも思うが、これが仮に断続的で継ぎ接ぎの研究となると急にそのクオリティは落ちることになる。私も昔日にご縁を頂いていたある研究者の方も同様に地道で不断の作業を続けていた。この御仁は冷戦時代のソ連軍を担当していたが、毎日、地道にソ連のラジオ放送や新聞はもとより公開情報に目を通してレポートを作成し報告していた。


一般論として、人は新聞を前にするとそこに書かれている記事や文脈から事実を読み取ろうとするが、地道かつ不断に何かしらの研究意識を持って読み続けていると、そこに書かれていることよりも、書かれていないことを見出すようになっていくものだ。ある時まで名前が出ていた軍人が、ふとある時を境として名前が出なくなれば、何があったのかを自ずと追及していく思考習慣が身に沁みついていくことになる。


さて、小泉氏は同書のなかでロシア軍の演習を研究する一つの区分として2008~2013年の13年間を3つに分けて考えている。あまり細かくは書かないが、この期間だけでもロシア軍はその演習目的やあり方を大きく変えてきているのだ。08年には、冷戦時代に長らく想定した大規模戦争よりも、現実に起きえる小規模紛争への対応を重視した演習が増え、それに対応するために軍の組織編制もコンパクトになった。だが、そうした傾向も10年代半ばあたりを境にして変化し再び大規模戦争を想定した演習へと重点を置き、組織編制もそれに合わせてのものに戻っている(なお、演習のなかには仮想国家で別名こそ使うが日本や米国を対象にしたものもある)。


ロシア軍は、通常戦力ではアメリカ・NATOに劣勢であるから、先に触れたハイブリッドな戦い方をこれに織り込み、電子戦能力、対宇宙作戦能力に磨きをかけ、さらには戦術核兵器の使用を視野にいれた戦略を指向している。本書を読み終えて、一国が真剣かつ本気で安全保障戦略を考える凄みのようなものが伝わってきた。自らの弱点を客観視し、他方で持てる能力と強みを最大限生かして生き残りの道を探り、「詭道」(正々堂々の反対)を用いることを躊躇しない。そうした意志を明確に持ち、実戦での教訓を取り入れ、それに基づき戦略を体系化することを政治文化の「常識」としている。さて、隣国となる日本の安全保障戦略は十分だろうかとの思いはいうまでもなく湧いてくる。本書は私が少年時代に持った古いソ連軍のイメージを壊してくれることには成功したが、ロシアに対する警戒の気持ちは少年時代よりも一段上がったというのが正直なところだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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