論語読みの論語知らず【第95回】 「俎豆の事は、則ち嘗て之を聞けり」
「ドン ドン ドーン ドン ドン ドーン」と深夜に門前から響き渡ってくる陣太鼓。これを邸内の布団のなかで聞いた剣に覚えある清水一学は呟く。「これは一打ち、二打ち、三流れ。山鹿流の陣太鼓。しまった!」。とっさに枕元の刀に手をかけつつ、身を一気に起き抜けて寝所を飛び出して防戦に向かった。ご存知「忠臣蔵」、元禄15年12月14日赤穂浪士の吉良邸討ち入りのシーンだ。映画や演劇ではこのシーンは絵が映える。ただ、陣太鼓は映えるがゆえの演出であり、実際のところ赤穂浪士四十七人は陣太鼓を持参していなかった(「堀内伝右衛門覚書」)。少し考えれば、数年かけて情報を集めての練りに練った奇襲作戦で、わざわざ陣太鼓で討ち入りを相手に知らせ、相手に迎撃準備のいとまを与える必要もないので、これはやはり創作だろう。ただ、山鹿流の陣太鼓は縁もゆかりもなく演出のためだけに勝手に取り入れられたのではなく、浪士たちの亡君であった浅野長矩(内匠頭)の浅野家と山鹿流兵学の開祖たる山鹿素行との深い縁を象徴するものとして、いつしか使われるようになったのが実情のようだ(江戸中期・後期の絵画では陣太鼓を持った大石内蔵助が描かれている)。
山鹿素行は江戸時代の儒学者であり、兵学者(軍学者)でもあった。会津に生まれて大学頭であった林羅山のもとで朱子学を学び、他の師匠筋からは兵学(軍事学)、神道、歌学などを学び修めている。後に儒学のなかでも正統として位置づけられ始めた朱子学を批判したことで、播磨国の赤穂藩の預かりとなった。これを機に山鹿素行は赤穂藩主や藩士と交流して兵学を講義するようになる。なお、素行の残した記録や書き物は量としてはかなりのものになるが、その殆どが全集に収められている。この時代において兵学を研究するということは、『孫子』がその大元のテキストとなるが、素行もまた『孫子』を大いに研究してその解釈書である『孫子諺義(げんぎ)』を著わしている。また、素行という名(号)の由来は、『孫子』のなかの一文「令素行者」(令、素より信なる者は、衆と相得るなり。訳、軍令が平素から誠実に実行されているような将軍は、兵士たちと心が一つに結ばれているのである)からきている。(「山鹿古先生由来記」)
赤穂浪士が吉良邸に討ち入った元禄15年は西暦に直すと1703年、世は泰平で江戸初期の最後の大戦を1615年の「大阪夏の陣」とするならば、すでに100年近くの平和であった。この時代に素行を含めて実戦を知る者はなく、実戦を体験したものから聞く話の代わりに、『孫子』などが武士たちの間で学問的に広く学ばれていくことになった。ただ、泰平の世では今日明日にでも実戦が起きるといった緊張感を伴わないものになりがちで、ときに随分といい加減で夜郎自大な兵学を講ずる者たちも多かったとされる。そうしたなかにあって素行は兵学を体系的にしっかりと講義したのであり、『孫子』については「戦わずして勝つ」を高く評価しつつ、その最良の手段として「上兵は謀を伐つ」を上げている。
なお、素行の本来は儒学者である。儒学者でありながら兵学を重んじる兵学者であることはそれほど普通ではなくむしろ例外的なことなのだ。一般的には、儒学は軍事と一線を画すものとされがちで、その論拠として論語の次の一文が引用される。
「衛の霊公 陣を孔子に問う。孔子対えて曰く、俎豆(そとう)の事は、則ち嘗(かつ)て之を聞けり。軍旅(ぐんりょ)の事は、未だ之を学ばざるなり、と」(衛霊公篇15-1)
【現代語訳】
衛国の君主、霊公が軍陣のことについて老先生に質問をした。老先生はこうお答え申し上あげた。「祭器の並べかたは、かつて習得いたしました。さりながら、将兵の並べかたにつきましては、まだ学んだことがありませぬ」と(加地伸行訳)
この文脈だけを素直に読めば孔子は礼法には通じていたが、兵学には疎かったということになる。そこから儒学者は兵学に関心を有さないといった受け取り方が派生してきている。ただ、これは一面的な理解であり、孔子自身はときに兵法を用いることに躊躇していないし、『史記』のなかの「孔子世家」では「文事ある者は必ず武備あり」と孔子自身が言ったとされているのだ。ではこの論語の一文は何かといえば、兵学以上に礼法に通じる必要を霊公に説いたに過ぎないとの解釈もある(あるいは、相手の力量次第で話を変えるのが孔子の特徴でもあるので、兵学を語るに値しない人物にはそれを慎んだとも思える)。
さて、素行が残した多くの記録から浮かび上がるその基本的なスタイルは文武両道を説くものだ。武士が統治する世の中にあっては当然のように聞こえるが、泰平の世が長くなるにつれて武のあり方も大きく変容することが求められた。それは個人の技量である武技にいかに長けるかだけではなく、政治のなかにおいて武をどのように位置づけるかといった思想的な模索でもあり、それが山鹿流兵学の特徴となっていった。戦がない世の中で支配層となった武士たちはこの山鹿流兵学を重んじるようになったのはある意味では自然の流れでもあったといえる。
ふつうの儒学者のように政治において武を排除するのではなく、政治の中にそれを積極的に位置づける方向性は、今日でいえば政治と軍事の関係(政軍関係)の論理を示したものともいえる。中国古典を論ずる際によく引用される言葉に「国の大事は祀(し=祭祀)と戎(じゅう=軍事)とに在り」がある(『春秋左氏伝』)。素行はこれを引きつつ、『孫子』の解釈をしているが、そこでは「文道は祀を大事とし、武義は兵事を大事とす。武・文と相対すること、地の天に対し、影の陽に対するがごとし」と述べている。
江戸の泰平はやがて黒船が到来するまで保たれ、それが打ち破られたときあまりに世界と日本の間に技術の格差があることを痛感する。ただ、鈍ってはいても文武両道の精神性までもが失われていたわけではなく、それがあったがゆえに独立を保ち得て、その後の進歩をもたらした原動力の一つにはなったと思う。武が排除された儒学のみを奉じた日本の周辺国の歩みからもそのようなことを感ずる次第だ。
さて、話は大きく変わるが日本に新しい内閣が誕生した。総理は近く「国家安全保障戦略」を見直していくとの言を発せられている。個人的には、こうした問題を考えるときに戦後から思考をスタートさせて、法律論だけで論じるのが唯一の道だとは思っていない。戦前を含め、長い歴史を鑑みてどのような安全保障戦略があり得るかを真摯に模索していくといったアプローチも必要だと思っている(その意味では長い歴史のなかで日本は武をどのように取り扱ってきたのかにも思いを致すべきなのだろう)。
なお、一つ言い忘れてしまったが、冒頭の山鹿流陣太鼓、大石がそれを討ち入りで打ったというのは創作だが、そもそも「一打ち、二打ち、三流れ」などの山鹿流陣太鼓なるもの自体がフィクションなのだ。フィクションだと見抜きながら楽しみつつ、他方でそれを取り除き兵法の本質を見極めていくような醒めた思考はいつの時代も必要とはされているはずだ。懸念するのはフィクションと現実の区別がつかないまま、前者を後者だと思い込むことにあるのは言うまでもない。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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