温故知新~今も昔も変わりなく~【第81回】 中山元『自由の哲学者カント』(光文社,2013年)

カント、Kant、康徳・・・何語に翻訳されても、この人の哲学は難しいというのが概ね共通の認識のようだ。過去にこのブログでカントの作品を2冊取り上げている。『道徳形而上学原論』と『永遠平和のために』だが、後者については国際関係論・国際政治学などを学ぶ人にわりとよく読まれる。戦争の原因を追究しながら、平和をいかに確保できるかを模索した作品であり、国家が国際法を受け入れ、自由な共和政体からなる国家連合がつくられたあかつきに平和が見えてくるとの考えは、今日の「民主主義による平和論」のベースともなっている。


『永遠平和のために』はカントの晩年の作品であり、その政治哲学を具体的に展開している側面などは比較的受け入れられやすいが、カントの代名詞的な作品である『純粋理性批判』はまずもって人気がないのだ。これはプロイセンの哲学者・イマニュエル・カントの50代半ば過ぎてからの出世作なのだが、出版当初の評判は芳しいものではなかった。カントがこの作品の意義をわかってくれると信じて献本した知人には「読み続けると気がおかしくなりそうだ」と酷評すらされている。


日本語でもいくつか翻訳が出されており、全集だと3巻組、岩波文庫もまた上中下の3巻セット、光文社古典新訳文庫だと全7巻となる。人によっては『純粋理性批判』はプロの読み物だという(大学院などで哲学の文献を読む訓練を受けた者という意味だろう)。まあ、そうともいえるかもしれないが、アマチュアにも十分にその門戸は開かれていると思っている(なお、私はアマチュアである)。


さて、現代において難解名著の『純粋理性批判』を読む価値はどこにあるのだろうと問われたら、人工知能(AI)などのデジタルを駆使し、ビックデータなどを経営やビジネスに活用していく時代だからこそ必要なものだと答える。その意味するところは、人間が考えることを次々とデジタルにアウトソーシングしていくなかで、人間が本来ものを考えるといった意味合いはどこにあるのだろうか。何がわかり得て、どのあたりに限界があって、超えられない壁とは何であろうかといったことを探りわきまえておく必要があるように思うのだ。
その上で何が問題なのかといった根本的な問いを見つける力が養われるとも考えている(AIはこうしたことは考えないし、考えてくれない)。


これらの意義から、人間が考えることの可能性と限界を示している『純粋理性批判』はいまでも価値ある一冊なのだ。ただ、なんの前知識もなくこの作品にいきなりトライをするのはあまりお勧めしない。カントの哲学とはどのようなものだろうといったイメージを漠然とでも掴んでから読むのが良いと思う。私が個人的にカントの入門書として名著と思うのは、一つは『カント入門』(石川文康 ちくま新書)で、もう一つが『自由の哲学者カント――カント哲学入門「連続講義」』(中山元 光文社)である。前者を書かれた石川先生はすでに鬼籍に入られているが、カントとはまったく関係ないところでご当人のそば好きが高じて『そば打ちの哲学』といった本も遺されている。『カント入門』自体は丁寧に何度か読めばカントへの良き道標になってくれる。後者の『自由の哲学者カント』を書かれた中山先生は大学を中退されて以来、多くの哲学書を翻訳しておられる。中山先生が哲学者として著された同書は、カントの哲学を「自由」という概念を主軸にしつつ、カント哲学を理解する上で必要なミクロな部分から入り、次第に宗教哲学や政治哲学へと巧みに展開していくもので、文脈から伝わりくる真摯で丁寧な説明は知的にワクワクさせてくれるものだ。


私個人としては、人間が持つ「感性」「悟性」「理性」の3つの機能、役割、区分けを概ね掴んでしまうことが『純粋理性批判』といった「冒険物」(山あり谷あり)を読み切る上で重要だと思っている。ただ、「感性」「理性」はともかく、「悟性」という表現は今日あまり使われない。中山先生は「悟性」を「知性」として訳して「感性」「知性」「理性」として、それぞれを同書の前半で展開している。これらを端的な表現で示すと、「感性」は「~したい」と望み、「理性」は「~すべきである」と語り、真ん中の「知性」はいうなれば、これらを「~をいかにするか」といったことになる。もちろん、このような一言で終わってしまうほどにカントは容易くはない。


拙い説明になるが、「感性」は文字通り我々が一般的に使っている語感に基本的には近い。人間が何かしらの対象を感ずるために組み込まれているものであり、カントは人間が対象を前にしたときには時間や空間を軸にして感ずる形式が「アプリオリ」に有しているという(アプリオリとは、「生得的」にイコールではないが近い)。カントはこれらを「二つの純粋な形式」と呼び、人間が元々持っているこころの形式だとする。この形式を備える感性があってこそ対象を認識できるが、なおそれは対象の真の姿を認識できるものではないともいっている。


「知性」は対象や物事をカテゴリーに入れて判断していく能力であり、哲学の世界ではもともとアリストテレスが言い出した。たとえば、属性のカテゴリーでは、量、性質、関係、場所、時、状態、所有、能動、受動などに分けられる。カントはこれらを発展させてカテゴリー判断表をつくり、量、性質、関係、様態の4つのグループにまとめて、それぞれのグループに3つのカテゴリーを入れ込んでいる。目を開けていれば、そこに飛び込んでくる対象に対して自然と機能する「感性」が受動的だとすれば、「知性」はより能動的なのものだとして、これを自発的に使いこなすからこそ、人間とは自由に行動する主体としての側面があるとする。


「理性」は英単語に直すと「reason」であり、いうなれば理由と同義語になる。理由を探る力、理屈を作り出してく力となるが、この能力が人間の「躓きの石」となる。「理性」は「感性」で人間が有している時間と空間の「二つの純粋な形式」を越えようとしたときに試みるのだ。「理性」は、時間や空間を超えた問題を解こうと志を持たせ、「知性」をフル回転させもするが、「感性」に縛られた人間は限界に直面して判断ができなくなる。このことをカントは『純粋理性批判』のなかで有名な4つのアンチノミー(二律背反)を提示して、ゴリゴリと根掘り葉掘り論証していくのだ(たとえば、世界には時間的な始まりがある。世界には時間的な始まりはない・・など。少し考えてみてもこれに何ともいえないことに気づく。なお、世界といっても宇宙全体のイメージに近い)。


カントはそれまで万能と信じられていた「理性」に限界があるということを真正面から叩きつけた人で、それは次第に大きな波紋を生じさせることになった。合理主義でもってあらゆることがわかると思っていた当時の知的マジョリティは大変に困ったわけだが、後世にカントを読む者からすれば人間の考える限界を示してくれることにもなった。


中山先生の『自由の哲学者カント』に話を戻すが、この本がなぜ自由を軸として展開していくのかは、カント自身が真に自由とは何かを追求し、それを人間が本来持つからこそ尊敬に値するのだといったところに帰結してくる。もっとも、カントのいう自由とは、今日のようにその意味の振り幅があってないようで、ややすると弄ばれ気味の自由とはまったく異なる。本書はカントが説く自由の意味合いを、人間が個として持つ「感性」「知性」「理性」の兼ね合いからスタートし、後半で道徳、宗教、政治といった具体的な論点に入るにつれ、強く深く探りゆくことになるのだ。カント哲学のエッセンスに触れるにはとても良い本だと思っている(なお、先に触れた光文社古典新訳文庫の『純粋理性批判』全7巻は、中山元氏の翻訳なのだ。分量は多いが、一冊それぞれの半分に丁寧な解説がついている。「急がば回れ」的になるが、しっかりと読むならばこのシリーズが一番良いと思う)。


なお、人工知能(AI)がどのくらい人間の仕事を肩代わりしてくれるのか、未来のことはよくわからない。古代ギリシャのアテナイでは、奴隷や外国人に労働を任せて暇になった市民たちの一部は、哲学に身を入れて時間を費やしたという。仮にAIやデジタルに多くを任せてしまう未来が来たら、市民たちはまた別の活路を見出すものだろうか。まあ所詮、人工知能(AI)は哲学をしないだろうから、期待も込めて楽観的でいることにしよう(人工知能が人間を哲学的に考えることが可能になったら、どのような世界が生み出されるのか・・・これは哲学的な問いかもしれない)。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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