論語読みの論語知らず【第97回】 「百里の命を寄すべく、大節に臨みて奪う可からず」
少年の頃の愛読書である「三国志」(三国志演義)。私にとって諸葛孔明はとても謎めいた人物であった。「三国志」自体は小説、漫画、アニメ、映画、人形劇などいろんな媒体で世の中に提供されてきており、登場人物の描写はどれも際立っていて面白い。人徳に優れた劉備、智謀に長けた曹操などはわかりやすい描かれ方だが、諸葛孔明の描かれ方には作品によってかなり幅があるなと少年の頃より感じていた。劉備亡き後の蜀を実質的に担い、名軍師として歴史に名を遺した諸葛孔明は、実際どのような人物でいかなる仕事のスタイルだったのか、そんなことを時折考える。
「三国志演義」自体はいまでいう歴史小説であるから、そこで描かれる人物像や出来事が事実や史実とは限らないし、小説という性質上そこに演出が入り込み、大げさに描かれてしまうのはある種当たり前のことだ。呉と蜀が連合を組んで魏に立ち向かった有名な会戦である「赤壁の戦い」。曹操率いる80万の大軍(実際は15万程度)に対して、3万程度の呉の孫権と蜀の劉備の連合軍が正面から正攻法で戦えば勝ち目がない。そこで、呉と蜀はそれぞれの智将と軍師を中心に作戦構想を練ることになった。そのなかで、呉の智将たる周瑜が蜀の軍師たる孔明の頭脳のキレに危険を感じて、たとえ同盟を組んでいるにしても、孔明は呉の将来にとって危険人物であるからと謀殺することを考える。そのために一計として周瑜は孔明に無理難題をふっかける。周瑜曰く、魏の大軍と戦うために矢が不足しているが、10万本の矢を10日で用立てられないかと。孔明はこれに対して10日もいらず、3日で十分だと答えた。周瑜は戯言をいうと思いながらも、事がならなければ孔明を罰して斬ることができると考えて二人の約束は成立した。
孔明のその手並みは、まず20隻の小型船を用意して船一杯に草束を積んでその上を布で覆ってカモフラージュさせた。そして、3日目の夜に最低限の兵士だけを乗せ、夜霧にまみれて船団を魏軍の陣地へと近づけ、突如、銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、兵士たちに喚声をあげさせた。すっかり奇襲だと思い込んだ魏軍はその船に向かって雨あられの如く矢を射かけるところとなったが、適当なところで孔明は船団を撤収させた。夜が明けてみるとこの20隻にそれぞれ積んだ草束の上には10万本以上の矢が刺さっていた。周瑜はその功績を認めつつも、孔明には智謀ではかなわないと歎じつつ評価したとして描かれる。
こうした逸話などは多分に小説的な要素や演出が入っているし、ここから孔明が軍師として奇をてらうことを好むかのように解されやすい。ただ、実際のところ孔明という人物がこのようなことをしたのだろうか。「三国志演義」ではなく、孔明に言及する別の史料からはまったく違った顔が見えてくる。清朝時代の史料に「諸葛忠武候文集」なるものがあるが、専門家によるとこれは孔明自身の文と別人のものが入り混じっているものだという。ゆえにある程度割り引いて考える必要があるが、それでも孔明がどのような用兵思想をもっていたかをある程度解明させる。このなかで、孔明は船団の運用について論じており、細かい話だが船上には水に浸けた布を積み込み、敵が火矢で攻撃を仕掛けてきたら、即座にその布で消火活動に勤しむものとし、その命令に背く者は処分すると定めている。水軍を運用する者からすればこれはある種当たり前のことであるが、換言すれば、当時から水軍に対して火矢を用いて攻撃を仕掛けるのはスタンダートな手段でもあった。ここから敷衍してくると、「三国志演義」のなかで、孔明が20隻の船団で奇襲をかけたときだけ、魏軍が火矢ではなく通常の矢で攻撃をかけるといったことが都合よく成立するかどうかは微妙なものとなる。そうした意味では「勝ち目」が少ない賭けのような奇襲に、孔明が自分の命をかけて周瑜と約束したことなどには疑問符がつくのだ。
孔明自身は政治家(丞相)であり軍師であったが、その統治スタイルは法治7割、人治3割といったもので、軍師としてのスタイルはどちらかといえば正攻法と組織戦を重視した人であり、フォースユーザーとしてよりもフォースプロバイダーとして長けていたのが実際のようだ。国や軍隊のマネジメントには法律、軍規、軍律を重んじており、これを公平に運用することを原則とした(このあたりは「孫子」のスタイルと基本的には同じだ)。現代の感覚からは法を公平に適用するのは当たり前ではあるが、国といえども地縁血縁を重視する共同体にあっては一律公平を貫くのはそれほど簡単ではなく、それでも孔明は法治を基本としている。ただ、「史記」などに登場する他の法家のように、冷徹にすべて法律でもって対処するわけではなく、そこに情理(仁慈)を適度にブレンドさせて統治を行っている。また、強い軍隊を錬成するために孔明は軍規、軍律の徹底とともに、指揮官のあり方や情報戦への向き合い方などかなり細かな気配りをして論じている。
孔明は平時にあっては国の統治と軍隊の錬成にすべてを捧げた人だが、いまでいうワーカホリックであった。丞相としての働きぶりは「(早く)夙に興(お)き、夜(遅く)いぬ。(鞭打ちの)罰二十以上(のとき)、みなみずから(その罪状)観る」(『魏氏春秋』)と残されている。この記録は孔明のライバル的存在であった魏の智将・司馬仲達が孔明の生活ぶりはどのようなものかと蜀の軍使に尋ねたときの回答だとされている。ちなみに鞭打ちの罰二十以上が適用されるのは今日の軽犯罪に該当するものだ。一国の丞相がこのような刑罰まで見始めたら体が持つわけがなく、結果的に命を縮めることになった。自らは法治と正攻法や組織戦を重んじておきながらも、丞相として全権は有していたとはいえ、ときにマイクロマネジメントに過ぎたようだ。「死せる孔明生ける仲達を走らす」はあまりに有名な言葉だが、孔明は亡くなってから数十年経ってもなお、蜀の地では孔明を偲ぶ者が多くいたと歴史には刻まれている。孔明がもう少し長生きしていたらどのようになっただろうかというのは、少年の頃に何度も想像したし、いまでも時折考えてしまう題材だ。論語の次の一文を読むとき、私は諸葛孔明を想起してしまう。
「曾子曰く、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨みて奪う可からず。君子人か、君子人なり」(泰伯篇8-6)
【現代語訳】
曾先生の教え。(いまここに一人の人物がいるとして、)幼少の君主を委ね託することができたり、また大国の(君主が没し喪中のときに)政治を担当させることができたり、国家の大事を前にして確乎たる信念・節操を持ち続けることができるとする。このような人が教養人であろうか、(そうだ、真の)教養人である(加地伸行訳)
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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