温故知新~今も昔も変わりなく~【第83回】 大塚久雄『社会科学における人間』(岩波新書,1977年)

合理性や合理的といった用語はパワーワードであり、複数の人が巻き込まれる組織、事業、プロジェクト、仕事などでは合理性を保ち、合理的であるべきだとされている。この考え方自体には強い反対はまず上がらない。ただ、この合理性や合理的といったものに対する捉え方に、かなりの個人差やバラつきがあるとなれば、合理性や合理的も結構いい加減なものになり、事情も大きく変わってくる。


このブログを書いている現在、明治大学の社会人講座(リバティアカデミー)で「教養としての戦略学(失敗の本質と戦略思想)」と銘打った講座を開講中で、週に一度オンラインで講義を担当している。つい先日、日本が大東亜戦争へと至る開戦経緯を講義しているなかで、組織が物事を合理的に考えていくとは何かを改めて考える機会となった。本講義では、1984年に出版されロングセラーになっている『失敗の本質』(ダイヤモンド社)と、孫子やクラウゼヴィッツの戦略思想でもって再アプローチをした拙著『「失敗の本質」と戦略思想』(ちくま新書)の2冊をベースにして、改めて戦略思考とは何かと考える講座を目指している。コロナ禍以降、世界やビジネス環境の急激な変化のあおりも受けてなのか、講座は現役のビジネスパーソンが多く受講してくださっている。


『失敗の本質』は社会科学的方法をもって戦史を分析するといった立ち位置から入り、そして経営学、組織論、戦史といった専門分野も考え方も異なる学者や研究者たちが、微に入り細を穿つアプローチをして一定の結論を出している。本書のなかでも書かれているが、合理性をもっとも体現しているはずの軍事組織(日本軍)は、「大東亜戦争というその組織的使命を果たすべき状況において、しばしば合理性と効率性とに相反する行動を示した」とされている。本書が日の目をみるまでの研究過程では、個々の事例の特殊性を強調する向きと、それらをどうにか理論化しようとする考えの揺らぎが大きくあったとされている。本書の著者たちはバックグラウンドの違いから物事へのアプローチが異なるも、それらの共有化を図るための議論が積み重ねられるなかで、社会科学の前提となる合理的や合理性とは何かについてもすり合わせていったと思っている(そのためにはとてつもない量の知的エネルギーが必要とされたであろう)。


さて、巷では合理性や合理的であることは、論理的であることとほぼ同義語で扱われやすいが、これが案外に曲者でもある。人間が物事や事業に向き合うなかで、わかりえることは論理的に整理するが、わかりえないと思うこと(そう感ずること)は、思考から早期に捨象や排除し、わかりえることを中心に整理し論理的な体裁を整えることにもつながりやすい。これでも一応は合理的と呼べるかもしれないが、どこか危うさを押し込んだものでもある。常識的かつ当たり前のように使っている合理性とは一体なにを指しているのだろうか。それほど大層なものなのだろうか。そのような漠然たる疑問を持ったとき、そこに考える材料を提供してくれる本の一つが大塚久雄の『社会科学における人間』(岩波新書)だと思っている。


大塚久雄(1907~96)は、経済史学者であり、マックス・ヴェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論を手段として「大塚史学」とも呼ばれるアプローチを確立したとされる。この「大塚史学」自体は現在ではそれほど人気があるわけではないが、そのことの云々よりも、大塚が物事を考えるためにヴェーバーやマルクスをどのように捉えていたかを知る過程で、合理性とは何かを学ぶことができる。なお、大塚久雄著作集は全13巻で岩波書店から出されているが、この「社会科学における人間」を一冊読むだけでも、大塚のアプローチのエッセンスを知ることは十分にできる(この本自体はもともとNHK教育テレビでの連続講義がベースになって原稿化されていることから、一般的向けでわかりやすいのだ)。


本書の構成は1 「ロビンソン物語」に見られる人間類型、2 マルクスの経済学における人間、3 ヴェーバーの社会学における人間、の3部構成となっており、これらに「人間類型論」といったものを軸にアプローチしている。これを簡単にいえば社会のなかで人間がどのような行動様式を持っているか、それを支えている外面的な物事や内面的な動機付け(エートス)とは何かといったことなどを問題にしながら、その類型を洗い出すやり方である。そして、人間類型(人間類型論)とは、普遍的な人間性(特定ではなくあらゆる社会であてはまる)と個々人の個性(パーソナリティ)との中間で優れた意味を有しており、これら二つの極のあいだで成り立つ人間論こそが、社会科学の成立の前提となるべきだと大塚は主張する。


本書のなかで、大塚はまずダニエル・デフォーの作品である『ロビンソン物語』(ロビンソンクルーソー)を持ち出す。物語のなかで船が漂流した末にたった一人で無人島に流れ着いたロビンソンが、難破船の中に残された資材を巧みに使って「合理的」に島で生活をしていく姿を、実際の英国史のなかで現れた「エンクロージャー運動」(囲い込み運動)によって生まれてきたとされる農村工業の中小生産者を重ね合わせて論を展開していく。粗削りながら計画性もち、「呪術的な非合理性から解放」されているロビンソンが形式合理性を特徴として、無人島で畑をつくり、羊を養いながら生活をして、1年が経過するバランスシート、貸借対照表をつくって収支を計算し儲けが出ているかどうかをみる(そして神に感謝する)。このような合理性を持った人間を「ロビンソン的人間類型」として浮彫にする。


次に、大塚がマルクス経済学を引き合いに出すところでは、「ロビンソン的人間類型」を踏まえつつ、マルクスの前提を丁寧に説明することから始める。大塚はここではマルクスの経済学の全貌を紹介するのではなく、マルクスのなかでは人間がどういう姿をとって現われてくるかを中心に論じたいとして、別の人間類型論にアプローチする(なお、最近ではマルクスに再びスポットを当てて物事を論じようとする向きもあるが、そもそもマルクスがなにを前提としているのか、換言すれば、何を捨象しているのかを知るには新たな論者のものよりも、正直なところ、大塚の本がいまでも有効だと思っている)。大塚はこれについて次のように喝破している。


「・・・人間はつねに商品や貨幣の所持者、あるいは資本や労働力や土地の所有者というような、経済学的諸範疇の人格化として、あるいは、そういう諸範疇の表現する抽象的な経済的利害を人格的に表示するものとしてのみ現われてくる。つまり、人間は生身の姿ではなく、なんらか抽象化され類型化された物質的利害の担い手という姿でだけで現われてき、それ以外の姿では現われてこない。・・・たとえば、資本家のなかにも理想家はいるし、抜け目のない現実派もいるし、労働者のなかにも勤勉で向上心の強い人もいるし、怠惰なものもいるでしょう。しかし、そういうさまざまなことがらは、直接物にまつわる利害と結びつくものでない限り、人間的にはどんなに価値のある資質であっても、すべて捨象されてしまって、人間はただ、いわばみずから動きまわり、互いに社会関係を結び合うさまざまな物のお付きともいうべき姿となっている」(第2章「マルクスの経済学における人間」より)


最後の第3章においては、大塚はヴェーバーを持ってきて人間類型を論じ、ヴェーバーを人間論の相対化に正面から取り組んだ人物として位置づける。マルクスの次にヴェーバーを対置するその展開は巧であり、マルクスにとってヴェーバーは捨象したもの、捨て去って自らの論理からは排除したはずのものを、もう一度浮かび上がらせる写し鏡のような存在でもある。ヴェーバーの物事のアプローチはマルクスに比べて多元的であり、特に人間の行動様式に大きく影響を与えるエートスを内面から支える内的―心理的側面に重点を置くものだ。大塚はこの最終章のほとんどをヴェーバーの代表作として知られる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の解説に費やし、人間が経済的な合理性を持つに至った道筋を明らかにしていく。禁欲的プロテスタンティズムからの隣人愛の実践が、職業への専念を促進させて、結果的に利益を生み出し拡大再生産へと紐づく過程を説明する。


ヴェーバーの社会学は比較宗教社会学としても知られるが、キリスト教、ユダヤ教、儒教、原始仏教、ヒンズー教などの宗教といったものを合理性と非合理性のどちらにウェイトを置いているかを一つの切り口としている。そして、「呪術的な非合理性からの解放」といったベクトルを用いて宗教の概念を整理し、プロテスタンティズムに合理性を生み出す素地を認めることになる。


さて、本書においてロビンソンクルーソー、マルクス、ヴェーバーを使って人間類型のいくつかを展開した大塚は、社会科学のベースとしての合理性といったものを説明している。これらから浮かび上がるのは、計画的に行動し、消費と投資のバランスを数字化し、物質的利害の調整を尊び、宗教を非合理性から解放するといったことを軸にした人間類型であり、それをもとに因果関係を見極めていくことが合理性と呼ばれるものになる。物事を「理念型」(モデル)として簡易化して捉え、多くの人々と共有するためには仕方ないことなのだろう。他方で、社会科学の合理性には所詮限界があることも事実であり、わからない、わかり得ないと感ずことが、都合よく迷妄と同義語にされて捨象されていくリスクもまた常に孕むもので、それらの価値をどう考えるべきといった問題は常にあるはずなのだ。そして、気を付けなければならないことは、十分に探究することをしないままに、非合理的だといって物事の捨象や排除に走り、それが合理的で合理性だと錯覚する知的な怠惰でもある。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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