論語読みの論語知らず【第98回】 「異端を攻むるは、斯れ害あるのみ」

「子は怪力・乱神を語らず」(老先生は、怪力や乱神(怪しげな超常現象についてはお話しにならなかった)は論語の有名な言葉だ。この一文の解釈をいかにするかは深遠なテーマでもあるが、後世は一つの解釈が敷衍され、儒学の「正統」とされた朱子学では「あの世」など無いとされた(「この世」と向き合うことに重きを置いた)。中国の南宋時代に朱熹(1130―1200)によって大成された朱子学は、当初儒学の一学派に過ぎなかったが次第に大きな力を持ち、中国では明・清王朝時代に正統な学問に指定されている。高級官僚の採用を決める科挙での答案回答も朱子学の学説に沿って行うことが求められた(権力を握りたい者たちは、好む好まざるに関係なく試験のために朱子学を必死で勉強することになった)。


日本での事情はこれとは多少異なる。徳川家康が関ケ原での合戦を経て権力を握って間もなく、当時の日本では数える程度しか存在していなかった朱子学者の林羅山を自らの側近として加えた。なお、林羅山は藤原惺窩から朱子学を学んでいる(藤原惺窩は戦国から江戸にかけての儒学者だが、他の学問に対して排他的な態度はとらなかった人だ)。


家康に仕えたことがきっかけで、林羅山以降、その子孫も徳川将軍家に仕えることになり、その家学ともいう朱子学が次第に力を持っていく。五代将軍綱吉は儒学を好むところもあり、それまでは林家の当主は法印といった上級の僧位(僧侶の位階)を与えられ、頭も剃髪していたのが、綱吉以降は髪を伸ばして、古代律令制上の官位である大学頭(だいがくのかみ)を名乗ることになった(湯島聖堂(孔子廟)がつくられたのもこの時期である)。


こうして朱子学という思想は明確に特別扱いを受けることになったが、他方で科挙に基づく官僚制は存在せず、徳川の統治体制では家康が天下を取ったときの兵制(軍制)をそのまま政治の統治体制に変換させ、役職の世襲を認めたことで、朱子学がイコールで出世の手段として直結することはなかった。


この朱子学なる思想はどのような考え方なのだろうか。朱熹によって確立された朱子学を少しさかのぼれば、北宋の張横渠(ちょうおうきょ)にあたるが、この人が残した言葉には「天地ノタメニ心ヲ立テ、生民ノタメニ命ヲ立テ、往聖ノタメニ絶学ヲ継ギ、万世ノタメニ太平ヲ開ク」(『近思録』)とあり、宋学(朱子学)の根っこを表すような言葉だともいわれる。また、宋学(朱子学)の源流には道教や仏教の影響が強くあり、思弁的な体系などは仏教(仏典)がなければ成立しなかったとも一方でいわれることがある。しかしながら、朱子学自体は、冒頭で触れたように「あの世」などは考えず、「この世」の在り様のみを考える。世界(自然や宇宙の観念を含む)は、規則正しく巡りゆく季節、留まることなく動き続ける天文、刻々と変化する天候や自然などの人為を超越した「天」の動きによって成立している(ただこの「天」は人格神などではない)。この「天」によって生かされている人間は自然とそれを畏敬するものだと考える。


また、人間や動物、植物などの万物はすべて「気」でつくられて形をなしているとし、この「気」によって万物はつながり、人間も天地も一体であるとした(この気の考え方はさらに「陰陽」や木・火・土・金・水などの「五行」へと展開されていく)。そして、気と対になるような形でもう一つ「理」といった考えを示し、この「理」とはこの世のあらゆる事象や物事のあるべき姿を司るものだとした。この「理」は万物個々に宿りながらも、根っこでは一つだとしつつ、人間には人間の「理」がやはり存在しており、それは「善」なる性だとする。人間はこの理にしたがって生きるべきではあるが、私的な欲に惑わされ、秩序を失い気が澱んでいればそれが難しく、これをいかに修正していくべきか、どのように修養に取り組むべきかとの展開構成となる。


『大学』は四書(他は『中庸』『論語』『孟子』)のうちの一つで、そのなかの「修身、斉家、治国、平天下」は有名だが、この句の前には「格物、致知、誠意、正心」がつく。朱熹は自らを修養していくための根本には、「格物」「致知」といったことの大切さを取り上げ、「物に格(いた)る」「知を致す」を、それぞれ物事の理をきわめて解明すること、自らに備わる知の発揮に尽くすことだとした。これを学問の在り方だとし、その具体的なやり方は「四書五経」を読み込むところが基本で、その上で歴史を学び論じ、自らの行為を省みるといったことに帰結させていく。


きわめて単純化して朱子学の在り様を述べた。中国では正統とされた朱子学も、江戸時代の日本では「権力」からは重んじられはしたが、「市井」からは批判が強くあったのも事実だ。町の儒学者であった伊藤仁斎などは朱子学に対抗するかのように、自ら独自の儒学体系を構築している。もっとも、京都の町人身分で生まれた仁斎が、朱子学から決別して独自の思想体系をつくり上げていくまでには、長らく朱子学や仏教に浸っていた時間もある。仁斎は朱子学がいうような学問方法で物事の理をきわめることや、加えて天に「理」があって、それを人間が認識し得るとの理屈を否定した。その上でもっと身近な市井の人間関係のなかに「道」があるのだとする。


「道とは、人有ると人無きとを待たず、本来おのずから有るのもの、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らずといふことなく、処として在らずといふことなし」(『童子問』)


なお、仁斎は京都の町で塾を開き多くの人士と交流し、仁(思いやり)を重んじる教えで人望をずいぶん得て、『論語』『孟子』に独自の注釈をつける作業を生涯にわたって続けて79歳で静かに世を去っている。


こうしてみると一言に儒学といっても、その考え方や手段には大きな違いがあるようだ。ところで、儒学の根本でもある『論語』には次の言葉がある。


「子曰く、異端を攻(おさ)むるは、斯れ害あるのみ」(為政篇2-16)


【現代語訳】
老先生の教え。異端の学習に専念するのは、害があるのみぞ(加地伸行訳)



「異端」に対するものは「正統」になるが、そうなると「正統」な朱子学からみると仁斎の儒学は「異端」扱いになるのだろうか。所詮はときの王朝や権力が正統だとして位置づけただけのことに過ぎないが、一つの権力と一つの思想とつよく結びつくことで、統治システムを巧みに機能させてきた歴史のことは今日ではよく知られている。他方で仁斎のように朱子学に真っ向から対抗し、独自の思想体系を練り上げてもなお、権力から弾圧を受けずに身を全う出来た人がいるのもまた歴史の事実なのだ。こう考えてみると、日本では学問の自由は随分昔から確保されていたようにも感ずるし、異端であっても十分に生きて活躍する場所を得られるリベラルな空気を封建時代のなかにも見出すこともできるように思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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