温故知新~今も昔も変わりなく~【第84回】 山本七平『聖書の常識』(文芸春秋,2013年)

個人的なことであるが、幼稚園はカトリック系であった。両親は家から近いからとの理由でそこを選んだだけで、さして深い思想や配慮があったわけではない。幼稚園の隣に立派な教会があり、園児は教育の一環としてそこによく通わされ、神父さんのわりと長い話をお行儀よくして聞くことになった。遠い記憶のなかでは細身で柔和な表情の今田共栄神父は、もうだいぶ前に帰天されてしまっているが、当時は子供に対してわかりやすく聖書の話をしてくれたものだ。ただ、聖書が語る世界は、私にとっては敬虔な気持ちにさせるよりも、正直なところ畏敬の念を抱かせるものが多かった。卒園時には今田神父が園児一人一人に直筆メッセージ入りの聖書を手渡し、祝福の言葉をかけてくれたことを今でも覚えている。あれから40年近くを経た私は、正月は神社に参詣し、葬式があれば念珠持参で寺院に赴き、クリスマスもお祝いする平均的な日本人に結局のところは仕上がってしまっている。なお、当人はいずれもいたって敬虔な気持ちで向き合っているつもりなのだ。


聖書といったものにどのような態度で臨み、いかに読み進めていけばよいのかは、私にとって長年の難しい問題であった。日本語訳で聖書を通読すること自体のハードルは低いし、近年では聖書を「物語」として書籍化した作品や、平易に聖書を語る解説本なども多くあるので、一般的な知識を仕入れるだけならば容易ではある。さらに専門的なことを知りたければ日本基督教団出版局が出している『総説旧約聖書』『総説新約聖書』と向き合うのがオーソドックスな学び方だろう。ただ、そうしたアプローチではなく、敬虔な一人のクリスチャンが自らの理性と知性を最大限に行使し、聖書に向き合った手ほどき書(入門書)としての一冊を選ぶならば、個人的には山本七平(1921~91)の『聖書の常識』を挙げたい。


在野の評論家として名を馳せた山本七平は、『「空気」の研究』『帝王学~「貞観政要」の読み方』などの作品で有名であり、特に「イザヤ・ベンダサン」のペンネームで出した『日本人とユダヤ人』はベストセラーとなり大いに世を騒がせた。大東亜戦争中に徴兵され少尉としてフィリピンで戦い、帰国後に山本書店を設立し、聖書にまつわるものを中心に出版することを目指した流れからは、『聖書の常識』は山本の本流作品ともいえる。ただ、これは先に挙げた作品よりは知名度の上ではマイナーでもある。


『聖書の常識』のまえがきでは、「・・本書はいわゆる「聖書物語」ではない。そうではなく、聖書とはどのような本であるかを紹介しようと志した本である。簡単にいえば、まず本書を通読して聖書とはどんな本かの概要をつかんでいただき、次には聖書を読むときの参考書にしてほしい、というのが著者の願いであった・・」とある。入門書と参考書として両用されるものを目指したこの作品は、日本人がわりと違和感を覚えるポイントに配慮しつつ展開されている。冒頭で旧約聖書の成り立ちから入り、中盤以降では新約聖書の領域へと進んでいくが、その過程で聖書を理解するための論点を、読み手が予備知識を特に持たない前提で整理説明していく。


「旧約聖書は創世記からはじまり、その創世記は天地創造の物語からはじまる。そこで聖書の第一ページから読む人は、聖書が歴史的順序に従って書かれているように錯覚しがちだが、これは大きな誤解である・・・だいたい、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記とつづく最初の五つの本(これを「五書」という)は、厳密な史料分析をへない限り、歴史の直接的資料としては役に立たないと見るのが普通である」(誤解されている聖書)


本書の前半では、五書を中心としてその旧約聖書の成立や構成について言及していくなかで、「預言者」の意味合いと位置づけ、旧約の古い部分には来世といった考えがないこと、因果応報の考えではなく、神との契約といった考え方などのポイントを踏まえていく。契約という言葉自体が日本では普通に商業上のやりとりで使用されるものであるから、「神との契約」といった表現はどこか肌感覚に馴染まない部分だろう。神との契約とは要するに、律法(トーラー・五書)を完全に順守することと同義語で、この契約を徹底的に守ればこの社会に「義」が現れるが、守らなければ裁きを受けるといった考え方であり、旧約ではこれが「歴史観」となり価値基準となっている。


山本は一般的な契約の概念として(1)上下契約、(2)相互(対等)契約、(3)履行契約、(4)保護契約の4つを挙げた上で、日本人には「上下契約」といった概念がないと考えている。


「たとえば日本にも「忠臣」がおり、「忠臣蔵」もある。しかし当時の家臣は殿様との間に契約を結んでいたわけでなく、またこの契約を完全に履行するのが「忠」だという発想があったわけではない。これは西欧の騎士が主君と契約を結んでいたのとは大きな違いである。もちろん戦時中にも、天皇との間の契約を死んでも絶対に守るといった発想はない。この「上下契約」は、実は聖書の中の基本的な考え方であり、絶対者なる神との契約を絶対に守ることが「信仰(フェイス)」すなわち「神への忠誠(フェイス)」なのである。したがってその意味は日本人のいう「信仰」「信心」といった言葉と非情に違う。そして「神との上下契約」という考え方が基となっているので、聖書の宗教は「契約宗教」と呼ばれ、それが明確に出ているのが、俗に「モーセの十戒」といわれる「シナイ契約」である」(日本人にはむずかしい契約の思想)


聖書とは何であるのか、と『聖書の常識』は山本が自らの信仰と理性・知性を告白するかのように、この後もさらに引き続き展開されていく。山本は「私は聖書の内容は、いかなる学問的分析にも耐えられるものだと思っている。どれほど深く学問のメスを入れても、びくともするものではない」(歴史書としての聖書)といっているが、こうした態度のもとに書かれた本書は十分に読み込む価値があると思っている。ところで、山本七平という神学的な「専門教育」を受けていない独学者が書いた『聖書の常識』は、実のところいわゆる職業神学者からの評判はあまり芳しいものではなかった。著名な神学者が実証的な視座から徹底的に批判し、それに追従して品のない批判をした者も多くおり、実際、大学の神学部あたりでは山本の聖書関連の書物はほとんど無視されていたとのことだ。私は神学の議論細部はわからないが、ふと思うのは、聖書のなかに出てくる「預言者」もイエス・キリストも独学者だったのではないかということだ。


それから、山本がいうように仮に日本人に「上下契約」の概念がなかったとしても、その欠落を埋めるために何が機能しているかを模索しみるのも一つのテーマのようにも思う。それは論理や言葉だけによらず、正月は神社に初詣、葬式は寺院、クリスマスを明るく祝うくらいの感性をポジティブに捉えて使うことが案外鍵になるような気もしている。もっとも、幼稚園を卒園して40年近く経ちこのような思いに至ったと、今は亡き今田神父にぶつけたら黙って苦笑いをされ、静かに赦されて終わりかもしれないが。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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