論語読みの論語知らず【第99回】 「然る後に松栢の後れて彫(凋)むを知る」

文字による記録が存在しない時代、農業も発達途上で文明らしきものがなかった先史時代の人類が、どのように暮らしていたかについては見解が分かれている。平和裏に共存していたのか、戦闘が絶えることなく発生していたのか、かつては前者の考え方に軍配が上がっていたのが、近年では考古学や文化人類学による研究から後者に上がりつつある。食料や資源を巡って争いが起きたことを想像するのは難くないが、戦闘には本気で相手を殲滅までは狙わない儀礼的なものから、奇襲攻撃を主軸にして相手にかなりの犠牲を強いて、家畜などの略奪をするものなど、いくつかの類型があったとされている。食料や資源へのアクセスを巡る欲求から生じていた戦いに、いつしか超自然的信仰から徐々に宗教に対する観念が芽生え、戦いの理由も様相も複雑になっていったとされるが、そのプロセスは厳密にはわかっていない。奇襲攻撃などが戦果を十分に得られやすいとの合理性を働かせる一方で、戦いの過程に呪術・魔術などの要素を反映させる非合理性を含めた渾然一体の様相が長らく続いたといわれる。


大昔から現代に至るまで戦争はその様相を変えながらも消え失せることなく存在し、そして、宗教も様々な形をとりつつ存在し続けてきた。現代日本の宗教構成は、文化庁の宗教年鑑に基づくと「神道系」は神社8.1万、信者8896万人、「仏教系」は寺院7.7万、信者8484万人、「キリスト教系」教会7千、信者191万人、「その他」信者740万人とされている。これらを足せば1億8311万人となり、日本の総人口を軽く超えてしまうが、神社は参拝に来れば信者とし、寺院の側もまた同じような理屈でカウントしているのでこのような数字になるわけで、神仏習合の文化である国としての一つの帰結であろう。そして、過去数十年の日本人の宗教意識を調査した別の統計によると、神か仏のいずれかを信ずると回答した人の合計が7割前後、何も信じないとした人が3割程度で概ね推移してきたとある。


日本におけるキリスト教の信者は、現在も数字の上では少数派にとどまるが、戦国時代に日本に伝来するも100年足らずで禁教とされ表舞台からは消え去り、明治になってそれが緩められたときに、思想的にどのように受け止めればよいのか知識人たちは戸惑いを覚えたようだ。怪力乱神を語らない儒学的教養人らの立場からは、聖書の世界観を受容することには相当の戸惑いがあった。たとえば、明治4年からの2年の間をかけて欧州や米国を見聞した岩倉使節団(全権岩倉具視以下、留学生を含むと総勢107名)などはその公式報告書において、キリスト教がなぜ欧米で受容されているかと疑問を持ち、その上でそれらを国民統治の手段とし位置づけて考え、統治する側、支配層の信仰などは表向きの仮面に過ぎないものだと判断した。


「西洋ノ人民、各文明ヲ以テ相競フ。而テ其貴重スル所ノ新旧約書ナルモノ、我輩ニテ之ヲ閲スレバ、一部荒唐ノ談ナルノミ。天ヨリ声ヲ発シ、死因復活ク、以テ瘋癲ノ讒言トナスモ可ナリ。・・・抑モ人民敬神ノ心ハ勉励ノ本根ニテ、品行ノ良ハ治安ノ原素ナリ。国ノ富強ノ因テ生スル所モ此ニアリ。・・・人ノ意識ヲ誘キテ其品行ヲ善ニ赴カシメ、・・・欧洲上等社会ノ人人ニ於テ、甚ダ法教ヲ崇重スル外面ヲミレドモ、其深意ヲ揣レバ、蓋シ人気ヲ収メ規律ニ就シメル器具トナシテ、ソノ権謀ヲ用フルニ似タリ。・・」(『特命全権大使米欧回覧実記』)


岩倉使節団に加わった者たちの儒学的教養をベースにした合理性からはこうした結論に至った。他方で、育ったベースが儒学でありながらも、後にクリスチャンとしての洗礼を受けても自己矛盾としなかった者もいた。サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』(『自助論』)の邦題で翻訳出版した教育者の中村正直などはその一人だといえる。ただ、中村は信仰を持ちつつ、「西国ハ教法ヲ以テ精神ト為シ、以テ治化ノ源ト為」すとして、その極みとして天皇について「先ヅ自ラ洗礼ヲ受ケ、自ラ教会ノ主ト為」ことを手段として説きもしている(『擬秦西人上書』)。


キリスト教に対するこれらの捉え方やアプローチに、現代からみて異論や違和感を覚えたとしてもそれは普通のことである。ただ、他方で過去においてこうした捉え方をした者たちのいずれもが、いい加減な態度でそれを行ったわけではなく、それぞれの時代の個々のバックグラウンドと合理性を駆使しながら、非合理性を含む宗教を理解しようとしたこと自体は否定できない。ところで、先の文化庁の調査では、日本では神道と仏教の信者がマジョリティとなっている。このデータ自体はある部分で事実といえるかもしれないが、その内実がどうであるかについてまでは、このデータが語っているわけでもないのだ。現代に生きる我々もまた一定の合理性を駆使して生きているが、日本ではキリスト教よりもずっと長い歴史を持ち、もはや文化の一部となった伝統宗教の持つ非合理性に十分に向き合っているかどうかはまったく別の問題でもある。論語につぎのような一文がある。


「子曰く、歳寒くして、然る後に松栢の後れて彫(凋)むを知る」(子罕篇9―28)


【現代語訳】
老先生の教え。寒さの厳しい年があるとき、そのときになって、(常緑樹の)松・柏が他の木々よりも遅れて萎むことをはじめて知る(加地伸行訳)


この一文の松栢(柏)の柏とは日本におけるカシワとは違い、檜に似た常緑樹を指すとされる。寒さが到来すると常緑樹以外の木々は早々に枯れて萎んでしまうことを、人間が節操なく志を変えることにたとえ、松柏はその逆のたとえだとしてこの一文は解釈されている。

 

先史時代より人間は食料や資源を巡るシンプルな欲求で戦争と戦闘を繰り返し、宗教性の観念とそれに付随する色々な物が、それらをさらに複雑なものにしたことは事実であろう。他方で戦争において苦しい時に、この宗教性が共同体を崩壊させることなく、ギリギリの紐帯を保ち得るための礎として機能した側面もまた否定できないとも思う。宗教という用語を文化というものに置き換えても良いと思うが、いずれにせよ宗教・文化のこれら両面をしっかりと掌握し、平素から自国や自らの「常緑樹」のことを知り育むあゆみは忘れてはならないと思う。国や共同体を外敵から守るのには防衛力・軍事力だけでなく、文化力が大きく関与するのであり、これがどの程度の縦深を持ちえるかで結局のところ戦略の在り方もすべて大きく変わってくるとも思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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