温故知新~今も昔も変わりなく~【第85回】 池内 了『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書,1996年)

書店にはよく行く方だが、すべてのコーナーを回るわけではない。私は単身世帯ということもあり、学習参考書や子供向けの図鑑などが並べられている書架にはまずもって縁がなかった。ところが、少し前に友人への贈り物を選ぶためにそれらのコーナーに赴くと、私が子供時代に知っている世界とはまったく違うことに驚いた。図鑑は、宇宙、生物、動物、植物、人間、鉱物、自然、科学など種類が豊富であり、どれもが写真や図表なども贅沢すぎるくらいに使われている。対象年齢も小さな子供向けからある程度の年齢の知的好奇心を満たし得るものまでと広くあり、正直なところ自分用に一セット購入しようかと本気で考えている。しっかりと品定めをして自分にあった図鑑を一セット揃え、時間のあるときにそれらを眺めてみる。大人にとってはもはや「常識」かつ「当然」と受け止めてはいる事象について、忘れてしまったか、わかっていなかった仕組み、理屈、原理などを改めて学ばせてくれるはずだ。個人的なことだが地理学、人類学、自然、環境学、ポピュラーサイエンスなどをテーマとする「ナショナルジオグラフィック」誌を定期購読しており、そこにこうした図鑑を併用すると基礎的な理解が深まり愉しみ方も増えるだろう。


ところで、コロナ禍における様々で科学的思考の改めての重要性が世間で叫ばれていた。科学的思考なる言葉は、サイエンスの領域だけでなく、戦略や組織論の領域でも普通に使われる。たとえば、『失敗の本質』などのなかでは、「日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった」とし、「これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ一見科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の「神話的思考」から脱しえていない」とある(同書第二章)。なお、この文脈の前後を読んでいけば言わんとしていること自体はクリアーなのだが、科学的思考自体が何を意味するか定義への言及はない。ここでの科学的思考とは合理的思考とほぼ同義語的なものとして扱い読み進めればよいが、科学的思考とは一体何であるかと多くの大人に問うたら、その回答の振れ幅は広くバラバラなものが出てくるのかもしれない。


科学的思考とは何か、大人がいまさら聞くにはなんとなく恥ずかしい問いにわかりやすくシンプルに答えてくれる本を挙げろといわれたら、その初版が出されたのは「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」から間もない1996年と、少し古い本ではあるが宇宙物理学者・池内了氏の「科学の考え方・学び方」(岩波ジュニア新書)を候補の一冊として選ぶ。なお、ジュニア新書自体はもともと10代をターゲットにして書かれていたのだが、実態としては幅広い年齢層が購入しているとのことだ。池内氏は本書の「はじめに」で次のようにいう。


「科学への強い「依存」と「不信」という矛盾した感情が、若い人々に広がる超能力や超科学へのあこがれに結びついているようです。自分で決心しないで占い・お告げ・霊視・大予言などに頼り、物理的に不可能な空中浮揚やトランスポーテーションを信じたり、実体のない守護霊やオーラが存在するかのように思う心理のことです。このような心理が「科学の時代」に広まっているのはどうしてなのでしょうか。現代科学を「超える」という幻想で、わからないことへの不安が取り除かれるかのような気分になり、同時に、神秘の世界に逃げ込むことにより、それ以上深く考えなくてもすむという「安心」感も得られるからではないかと思われます。・・・しかし、過去と現在とでは、はっきりと異なっていることがあります。やはり「科学」なのです。現代に生きる私たちは、多かれ少なかれ、科学の考え方や方法を身につけています。あまりに荒唐無稽な論理は、誰も信用しません・・」


本書の前半では、池内氏がなぜ科学の道を選び宇宙物理学者なったのか、研究やその仕事の魅力といった個人的なエピソードを語りながら、科学とよばれるものの基本的な考え方について展開していくスタンスだ。そのなかでは、自然科学とは現象や対象自体に興味をいだいて観測・観察・実験を行い、そうしたことから共通性・規則性などを発見していく方法(「帰納的方法」)と、基本的な原理・法則を推論して、個別具体的な現象・対象に適用して考察する方法(「演繹的方法」)に大まかに分かれるなどのベーシックな知識から始めてくれる。分かりやすく科学的に考えることを説明していくなかで、池内氏は科学の構造とはどの分野でも本質的に同じだという。


「・・・科学の構造は、どの分野でも本質的に同じなのです。私は、科学の構造を ある自然現象―背後にある物質の運動―運動を支配する法則―法則を貫く原理(あるいは仮設) というつながりと考えています。もっと単純化すれば、「現象―物質の運動―法則」でしょうか。このつながりを注意深くたどることにより、何がわかっているか、何がわかっていないか、何が今の緊急の問題なのかが、おぼろげながら把握できるからです・・・」(同書第1章)


また、科学的な考え方といったものが、観察から観測、観測から実験といった歩みで発展してきたと説明するなかで、現象の規則性を述べる「定性的」研究、現象の性質を単位ではかり数値化する「定量的」研究などに触れ、近代科学が成功する鍵となった還元主義とその限界などについてテンポよく進んでいく。そして、科学研究の進め方と方法論を述べるなかで実験手法、理論、モデル、仮説などをシンプルに整理してくれている。理系にとっては常識的なことなのかもしれないが、馴染みのない立場からは面白くある。なお、池内氏は科学とニセ科学をわけるカギとして次のように喝破する。


「重要なことは、実験は、どこでも誰でもが行え、同じ結果を再現できねばなりません。つまり、物質という実体にはたらきかけ、そこで発見された結果が、誰によっても実証できるという、科学の客観性を保証しているのが実験なのです。そのために、実験資料・実験条件・実験結果を正確に記述した論文が発表され、ときには実験手順のノートや資料そのものが公開され、誰もが追試することができるということが重要です。それが、科学とニセ科学を分けるキーポイントといえるでしょう」(同書第2章)


本書では「科学はどのように生まれたのか」といった科学史も含んでいる。そのなかで古代ギリシャの自然哲学についても触れ、多くの自然哲学者たちが現象とは観測と証明によって理解できる自然の法則に従うもので、「神のみわざ」といった「超自然」の働きを求めないと考えたとし、池内氏は古代の自然哲学者たちが、科学の本質を見抜いていた部分があるとしている。なお、これらの自然哲学者たちを取り上げる延長で、アリストテレスについても言及している。アリストテレスをこうした区分けのなかに入れることについて、その著作である『自然学』などをメインに論ずる限りにおいては適当といえるかもしれない。アリストテレスは自然についての学に関して

「そのための道は、われわれにとってより多く可知的でありより多く明晰であるものごとから出発して、自然においてより多く明晰でありより多く可知的であるものごとへと進むのが自然的である」(『自然学』第1巻第1章)

としている。ただし、他方でアリストテレスは自然を動かす根源に「神のみわざ」が作用することも想定しているのだ。別の著作『形而上学』ではアリストテレスは次のように記述している。


「すなわち、神はすべてにとってその原因の一つであり或る種の原理(もとのもの)であると考えられており(そしてこの学はまさにかかる神的な原理を対象としているから)、またこのような学(知恵)は、ただ神のみが、ないしは他のなにものにもましてとくに最も神が、これを所有しうるであろうから」(『形而上学』第1巻第2章)


したがって、池内氏のいうような意味でアリストテレスが「科学の本質を見抜いていた」については少しばかりの飛躍があるようだ。


さて、本書が後半へと進むにつれて、科学的思考の可知・不可知を弁えることの大切さを説きながら、基本はそれを肯定的に扱いつつ、話の筋は科学者の責任や倫理といったところに行き着く。その途中で、原子力・核兵器の問題にわずかに触れつつ、きちんとした倫理を持つ科学者が科学の力でもって解決していけるはずだとしている。その上で、理系と文系といった壁がなくなり、科学がもっと他の学問へと影響を与えていくのが、「等身大の科学」のあり方として期待を寄せてもいる。


池内氏が本書で説明するベーシックな「科学的な考え方・学び方」は、科学の思考過程のあり方を知る上ではとても勉強になった。ただ、科学が文系を含む他の学問に影響を与えていくのを良しとする一方、科学者が必要とされる倫理についてだが、その倫理が本来は何によって担保され得るものなのかといったことへの言及は一切ないのだ。人間の倫理が担保されるとして、それを科学的思考によって探求され得るものなのかどうかも本書からは判然としない。文系と理系の壁をなくすことに触れながらも、科学優位の立ち位置からのやや独善的な一方通行の部分があることは否めないとの感想を持ってしまう(もっとも、ジュニア新書といった性質を考えれば求め過ぎなのかもしれない)。


先にも引用したのを繰り返すが、本書の「はじめに」では「・・・神秘の世界に逃げ込むことにより、それ以上深く考えなくてもすむという「安心」感も得られるからではないかと思われます・・」といった一文がある。この冒頭の「神秘」を「科学」に置き換え、科学者の側もまた科学的思考の優位に謙虚でなければ、独善に陥る可能性をどこか弁え刻んでおくべきようにも思うし、「万学の祖」と呼ばれたアリストテレスはそこを踏まえて学問をしていたと私などは思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

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