「孫子」第18回 第4章 「戦略論」(1)
第1節 概 説
戦略論は巷に溢れており戦略の定義もまたその分だけあるが、現代においてその定義の範囲は拡大する傾向にある。戦略・戦術という用語は元来軍事領域でのみ使われていたが、いつしか国家レベルでの政策や経営学・組織論などの領域でも使われるようになった。「孫子」自体は戦略・戦術という用語を使ってはいないが、それらにあたる概念をある程度区分していくつかの用語表現で兵法を説いている。それは、たとえば「用兵の法」「謀攻の法」「軍争の法」や「善く兵を用うる者」「善く戦う者」「善く敵を動かす者」「善く守る者」などであり、これらの用語のあとに、戦略・戦術上の方法論へと言及していくスタイルをとる。
なお、「孫子」には現代でいう戦略と戦術の概念区分で、はっきりとは線引きが出来ない叙述箇所がある。本文によってはどちらの区分についても当てはまるものもあり、読み手の力量によって引き出すものも変わってくるともいえる。なお、本要約ではある程度の区分をして論じることを目指し、「目的論」のところで触れた「政治目的」を達成するための方法や手段を本章で「戦略論」として考え、「行動目的」を達成するための方法や手段については、次章の「戦術論」で取り上げることにしたい。
第2節 不戦屈敵 ―戦争の抑止―
戦争を遂行することに積極的、消極的の違いはあっても、それは政治目的を達成するためのものとなる。軍事力を使わずにそれを達成できれば良いが、敵、味方のどちらかが軍事力を行使すれば、もう一方もそれに応じることになる。「孫子」は兵法である以上この軍事力をいかに運用するかについて、具体的な在り方をかなり詳細にわたって展開している。ただ、根本的な態度としては軍事力を直接動員して政治目的を達成するよりは、動員せずともそれを達成できることに重きを置くもので、ここまでに何度か「用戦屈敵」「不戦屈敵」といった用語で触れてきた。
「不戦屈敵」を重視する大きな理由の一つは、群雄割拠のなかで多数の敵に対して備える必要があったことによる。一国相手に全力で戦争を行い、自国がどうにか勝利を収めることができたとしても、自軍の損耗も激しく軍事力が低下するならば、今度は別の国から狙われる危険を増すことになる。したがって、用戦には慎重であることが求められた。もう一つの理由は、軍事力の動員が国の生産力の低下へとつながることを回避するためであった。この時代、軍事力が農耕に勤しむ人々からの動員である以上、これを失うことは農耕からの生産力に直結した。これは自国に限らず他国の領土を奪うときについても当てはまることで、他国の軍事力に相当の損耗を与えて領土を勝ち取っても、それは生産力が低下した土地を取ったことにもなるので、可能であれば軍事力を使わずに割譲させたほうが良いといった側面もあった。
このように「不戦」によって政治目的を達成することに重きを置くが、それを達成するために相手の意志を屈服させる手段として、先に取り上げた「静的戦力」である「道・天・地・将・法」の「五事」を充実させ、その力を背景にして圧力をかけていくことになる。この静的戦力とは軍事力だけでなく政治力、経済力、文化力などを含む総合戦力を意味し、五事の「道」にある道義・倫理を踏まえ、その上に立った道義外交が一義にある。「孫子」の理想主義的な側面となるが、たとえ総合戦力が圧倒的であっても、道義に反するような侵略戦争に否定的であったといえる。
ただ、道義外交といったもので相手の意志を翻意することができなければ、より積極的な手段を講じなければならない。
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(本文は河野収氏『竹簡孫子入門』の要約を基本とし、読み下し文・訳文はオリジナルから引用しておりますが、それ以外の本文は全て新たに書き換えております。また、必要に応じて加筆修正、構造の組み換え、今日適切と思われる用語への変換を行っております。原著『竹簡孫子入門』のコピーとは異なります。)
筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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