「孫子」第27回 第5章 「戦術論」(6)

「孫子」の「人を致すも人に致されず」(虚実篇)、この言葉は敵に主導権や主体性を奪われてはならず、味方は常にこれを保持しなければならないとする。孫武はこれについて詳細に説明をしている。先に「軍争」のところで、「機先を制する」ことを重視し、「後の先」によってこれを確保しようとする考えに触れた。ただ、これは理屈の上ではわかりやすいが、実行を間違えば「後手」にまわり、失点を取り返すことが難しくなるというリスクを説明した。これを回避するために、「人を致す」、主導権や主体性を奪う側からの視座だけではなく、「人に致されず」、それらを奪われないようにする視座についても多少の重複を厭わずに孫武は展開している。その第1の要点については次のようにいう。


「其の来たらざるを恃むこと無く、吾れの以て之れを待つ有るを恃み、其の攻めざるを恃むこと無く、吾れの攻む可からざる所有るを恃むなり」(九変篇)
(訳:敵が侵略して来ないだろうということを頼みにするのではなく、我が方に何時敵の侵略があっても対応できるという十分な防備態勢ができていることを頼みとするのであり、敵が攻撃して来ないだろうということを頼りにするのではなく、我が方に、敵が攻撃できないようなしっかりした態度があることを頼みとするのである)


この一文は、孫武の理想主義が強く出てくる部分でもあり、努力目標といった意味合いで解釈してもよいだろう。要するに「人に致されず」のために、そもそも味方の戦力を充実させて、敵に対して間隙を暴露しないといったことである。孫武が「先知」について触れた際に、敵の企図を合理的に判断すること、敵が採用し得る行動の可能性(可能行動)を掌握することを説明したが、この一文では行動の可能性について、よりフォーカスしている。


「其の来たらざる」とは敵の意志に関わることであるが、これは、相手国政府の政策理念、軍事・外交政策、外交声明、プロパガンダ、自国の希望的観測、などが入り混じる性質を持つ以上、それに過度な期待は禁物だという。その上で自国は防衛に向けた備えを怠ることなく、相手国の軍事能力を勘案したあらゆる可能性を排除することなく対象としなければならないとする。


自国がこうした姿勢を貫くことができるならば、これが安全保障を担保するために最も確実な手段ではある。しかしながら、相手国が強力であり、また、さらに複数の国と共存している状況を考えれば、あらゆる可能性に対応できるような戦力を備えるといった考えは、膨大なコストを要し、それを国家が維持し続けるのは容易なことではない。


故に、これを最善としつつも、「孫子」は次善のものとして現実に可能な努力の在り方を示す。「人に致されず」の第2の要点として、自軍、味方の能力、態勢、企図を秘匿して保全し、敵にそれらを看破させない、または誤解させるといったことを挙げる。そのために、指揮命令系統がきっちりとして、上意下達によって組成されている軍事組織において、部隊がしっかりとした規律と団結、精強さを保ちながらも、同時にどれほどの柔軟性を持ち得ているかを重視する。


孫武はこれを「無形」といった表現を使用する。無形といっても将兵、武器、装備からなる軍隊という組織体の形が無くなるという意味ではない。一般的に軍隊が陥りやすいコチコチの教条主義、たとえば「白兵銃剣突撃」ばかりを重視するような姿勢を排除して、戦況に応じての臨時編成や適時必要とされる新たな戦術などにも対処できるべく「無形」の要素を保つべきということになる。


「故に、兵を形(あらわ)すの極は、無形に至る。無形なれば、則ち、深間も窺うこと能わざるなり。知者も謀ること能わざるなり」(実虚篇)
(訳:だから、軍隊の態勢をとる最高のものは無形になることである。無形であると、深く潜入したスパイにも実情を知得されないし、敵の智謀の士でも我に打撃を与える計謀が作れない)


ここから敷衍してさらに次のようにもいう。

「其の事を易(か)え、其の謀を革(あらた)め、人をして識ること無から使む。其の居を易え、其の途を迂にし、人をして慮ることを得ざら使む」(九地篇)
(訳:軍隊の中の色々な制度や手続きを変更し、一度使った策謀を更新し、人々に記憶させないようにする。所在する地を転々と変更し、わざと遠まわりの道を通るなど常人には理解できない行動をして、人々に予測できないようにする)


これは理屈としてはわかりやすいが、実行には多くのハードルがある。味方の外に部隊の情報が流出することを防ぐために、内部での情報制限が過ぎれば不満や不信を呼び士気が落ちる可能性が高い。他方で、将兵に等しく情報共有をするほどに、それが流出する可能性が今度は高くなる。孫武はこのあたりの匙加減を指揮官の資質と能力に付託している。


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(本文は河野収氏『竹簡孫子入門』の要約を基本とし、読み下し文・訳文はオリジナルから引用しておりますが、それ以外の本文は全て新たに書き換えております。また、必要に応じて加筆修正、構造の組み換え、今日適切と思われる用語への変換を行っております。原著『竹簡孫子入門』のコピーとは異なります。)


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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