温故知新~今も昔も変わりなく~【第94回】 若槻禮次郎『明治・大正・昭和政界秘史~古風庵回顧録』(講談社学術文庫,1983年)

小学校の頃、図書室に備えてあった歴史関係の本をよく読んだ。子供向けとして活字にされた「織田信長」「徳川家康」などを借りてきてじっくりと読んだはずだが、どのような書かれ方をしていたのかまでは実のところ覚えてはいない。もう一つよく読んだのは漫画で描かれた「日本の歴史」シリーズだが、こちらは扱う人物によって絵の描かれ方のギャップがかなりあり、それが印象として残ったことで、今となればどのような価値観で書かれていたかを詳細に思い出すことが出来る。


古代、中世、近世、近代、現代と全巻をはじめから読んでいくと通史のイメージが子供ながらに掴めて便利な代物であった。ただ、明治以降から社会や世相が複雑になっていくことで、漫画のセリフや説明書きの量も次第に増えていく。複雑なことを子供向けにどうにかシンプルに整理する意味もあってなのか、人物によって顔立ち、表情、セリフをかなり特徴的に際立たせる演出が目立つ。娯楽漫画ではないので露骨ではないが、わりと善人面と悪人面を分かりやすく区別して描いている。明治・大正・昭和と藩閥政治から政党政治へと移行していく過程で、藩閥や陸軍などの登場人物をどちらかといえば悪人面、政党政治を確立させようとする人物をわりと善人面に描き、セリフや行動もそれぞれが所属する組織や派閥などの考えを最大公約数的に担わせる演出が特徴的だ。


こうした漫画では権力構造や関係がシンプルに描かれがちであり、この延長で中学校あたりの日本史も習った個人的記憶がある。複雑な物事を限られた形式と容量で伝えなければならず、歴史を教える在り方に完全なる公正中立といったものはまず不可能であることを踏まえれば、子供向けの入門漫画の手法に一々目くじらを立てる必要はない。ただ、子供から大人になるにつれて知的に成長するし、単純に思えたことがもう少し複雑であることはどこかで知らねばならない。藩閥対政党といった単純な捉え方で白黒の線を引くのではなく、明治、大正、昭和初期のなかで、立法、行政、司法、軍がどのような権力を持ち、互いにけん制や綱引きをいかに行ったかなどの実態を知るための大人向けの入門書があっても良いだろう。それは学者が丁寧に整理した組織や制度を論ずるものではなく、権力を当事者として行使した者による記録がよく、その一冊として若槻禮次郎の『明治・大正・昭和政界秘史(古風庵回顧録)』を挙げたい。


学校の教科書における「若槻禮次郎」(若槻礼次郎)(1866~1949)の記述は、憲政会総裁として加藤高明の後に内閣総理大臣を務め(二度にわたって総理を務めた)、そのとき閣僚であった大蔵大臣の片岡直温が「渡辺銀行が破綻」と発言したのがきっかけとなり、昭和金融恐慌が起きたことなどを紹介する程度だったと記憶している。大東亜戦争の後、引退していた若槻が読売新聞で昔話をする企画を受け、口述と筆記などを重ね纏めたものが回顧録(「古風庵回顧録」)となった。そして、それが復刻され新たに学者の解説が加えられたのが『明治・大正・昭和政界秘史』(講談社学術文庫)である。日本の歴史において総理経験者による本格的な回顧録は限られているが、ボリュームや示唆してくれる価値なども含めると若槻の回顧録は学ぶところが大いにあると思う。なお、本は厚さこそ400ページ程度あるが、内容や記述はすこぶる具体的で、文章も簡潔でありとても読みやすい。回顧録として生い立ちから順に回想していくスタイルで、「学生時代」「大蔵省時代」「政党時代」「重臣時代」の4章で構成されている。若槻は貧しいなかで苦学し、大蔵官僚となって頭角を現し、政治家に転身して以降も着実に力と人望を蓄えて総理になっている。その過程で若槻は多くの「論争」「政争」「権力闘争」に直面しているが、このことを回顧することによって、明治、大正、昭和初期といった時代、日本では、内閣、政党、行政機関、枢密院、国会、裁判所、軍隊が互いにどのような「権力」のぶつかり合いをしていたのかを詳らかにしてくれるのだ。表現が適切かどうかはさて置き、私などは本書をはじめて一読したときに持った正直な感想は、それぞれのプレイヤーがある程度ルールと法規に則った健全な「権力闘争」をしてきたのが、日本の近代史の側面でもあるのだな、といったものだ(暗殺などの掟破りもある)。


さて、本書の「学生時代」では、生い立ちや入試のエピソードなどが語られる。島根県松江市で下級武士の家に生まれた若槻は、漢学塾に通った後で代用教員となり16歳で田舎の小学校で教えていたが、司法省が法学校で学び官吏となる者を官費で募集していると知り応募した。その試験内容を語るシーンは時代を感じさせる。


「司法省法学校の入学試験というのは、『論語』『孟子』の解釈と、『資治通鑑』の白文訓点の二課目であった。私は小学校を卒業すると、漢学塾へ一年通ったから、漢文は得意でありそうだが、そう得意ではない。私はろくな本も持っていなかったし、一冊も持って来なかった。・・・そのころの評判では、司法省は法律が専門で、ひねくれた所だから、論語から出さず、孟子から出すだろう。・・・いよいよ試験になって、せっかく勉強した『孟子』が出ないで、『論語』が出た。すこぶる失望したが、とにかく答案を作って出した。しかし自信はなかった。ところが、試験は一回ということだったが、千二、三百人のうちから二百人だけ選抜して、もう一ぺん第二回の試験をして、この中から五十人採用するという。幸い私もその二百人の中に入っていた。第一回目は『論語』だったから、こんどこそは『孟子』だと思って、わずかの日数だったが、一生懸命『孟子』を勉強して、出てみるとまた『論語』が出た・・・」(「学生時代」より)


どうにか学校へと滑り込んだ若槻はその後帝大を首席で卒業し、農商務省への入省を第一希望としたがそれは叶わずに大蔵省に入った。本省と地方勤務とを繰り返しながら順当に出世してく若槻が内国税課長のポストにいたときに次のようなエピソードがある。


「私が内国税課長をしていた時、主税局長は目賀田種太郎であった。この人は一風変わった人で、平常はおとなしい人だが、怒るとけんかをする。一度怒ると、なかなか納まらない。私どもはけんかなどしたことはないが、議会の委員会などで、興奮するとよくけんかした。・・・貴族院での出来事である。議案は間接税反則処理法改正案で、反則者を一々裁判にかけず、税務署が罰金を科することが出来るという法律の改正案であった。委員会で目賀田が説明した。するとだれかが、税務官吏はけしからんことをするので、人民はみんな苦しんでいるといって非難した。すると目賀田局長、すっかり怒っちゃって、「そんなことなら私は答弁せん」とやった。・・・(議員が)これを聞いて、「答弁せんなら答弁せんでもよろしい。政府委員が答弁せんなら、諸君、これを否決しようじゃないか」と言い出した。これには目賀田局長も弱った。これは政府が必要があって出した議案だから、否決されて困るのは政府で、議員は痛痒を感じない。そこでその日の委員会はうやむやに済んだが、翌日は目賀田は出ない。これも私が答弁に立って、法案は成立した」(「大蔵省時代」より)


中学校の日本史あたりで教えられた貴族院のイメージとはだいぶ違うやりとりも時に行われていたようだ。若槻は第二次桂内閣(桂太郎総理)の下で大蔵省次官に就任し、その内閣の総辞職を機に次官ポストを辞している。そこから暫しの浪人(待機)を経て政治家へと転身する若槻は、第三次桂内閣のときに大蔵大臣となった。時代は政友会や犬養毅などが「憲政擁護運動」(護憲運動)を議会の内外で盛んに威勢を高めて「政争」を仕掛けている時でもあった。この運動により内閣は短命で終わるが、冒頭で触れた子供向けの漫画「日本の歴史」においては、政友会の面々をカッコよく描き、桂太郎は周囲から辞任を要求されてもそのポストに拘るような描き方をされていた。そこでは「憲政擁護運動」の高まりを受け、大岡育造(衆議院議長)が議会の控室で冷静に国情を説き、地位への未練をみせる桂太郎に辞任を求める姿を描いていた。だが、これについて若槻は本のなかでは次のように回想告白している。


「議会では、閣僚一同大臣室に集まっていた。政友会がいよいよ決戦に出るというので、大臣たちは「すぐ解散だ」とばかり、みな湯気の立つように興奮していた。そこへ議長の大岡育造が、総理大臣に会いたいといってきた。・・・桂公はその時私に「君も立会ってくれ」といわれたので、私も中へ入った。そのとき大岡はだいぶ興奮していて、「きょうは自分は衆議院議長として閣下にいし上げるのではない。閣下の同郷(山口県)から選ばれている衆議院議員として申し上げるが、今この議院の周囲は、激昂した民衆に取り巻かれているのです。政府がここで解散するということになれば、この民衆は決して血を見ざれば止むものではありません。場合によれば、これが端緒になって、内乱になるかもわからん。だから切に閣下のご考慮を願う」という意味のことをいって卓を叩いて公に辞職を進言した。桂公は黙然としてこれを聴いておられたが、しばらくして「よろしい」といって、ぽいと席を立たれた。それで大岡が退席した。私は桂公のあとから次の大臣室へ出た。その時にはもう桂公の肚は決まっていた。すぐに皆を集めて「自分は辞職することに決心したから、諸君もそのつもりで辞表を書いてもらいたい」といわれた。実に突然であった。閣僚一同は大いに戦おうと張り切っていたところへ、この宣告で、みな気が抜けて、しばらく口をきく者もない。・・桂公に対する世間の毀誉は別として、一国の宰相として大きな事業を仕遂げた人であることは、だれも疑うものはあるまい。その桂公が、組閣後日ならずして、こんな羽目に陥り、退陣を余儀なくされたことについては、口に出さなかったが、胸中万斛の涙を呑まれたであろうことは想像に難くない・・・」(「政党時代」より)


少年時代に読んだ漫画とはだいぶ違う情景がそこには展開されていたようだ。なお、漫画「日本の歴史」ではこの事件を、民衆を巻き込んだ運動によって内閣が辞職に追い込まれた明治時代初の事例とし、これ以降、日本の政治は藩閥政治から、政党・官僚が動かす政治へと変化したというシンプルな寸評をつけている。これが見当違いなどとは思わないが、他方で桂や政友会の双方に「政争」といった側面があったことへの言及はないのだ。


この回顧録はさらに後半で総理に就任した若槻がどのように政治や政争と向き合ったかなども率直に告白している。これ以上は具体的には書かないが、帝国憲法の下では総理の権力がさほど強くなかったこともあり、そのかじ取りは常に各所との調整を迫られるもので苦心したことが読み取れる。因みに、この本のなかで私が個人的にもっとも読み応えを感じたのは、総理としての若槻の行動よりも、第一次若槻内閣と第二次若槻内閣の間に行われたロンドン海軍軍縮会議において、元総理の若槻が首席全権で赴いたときの回顧部分である。日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアを交えて海軍力の軍縮について一定の方向性を出して合意しようとするも、それは各国の思惑が衝突し交渉は難航する。会議は数カ月にわたるが、このなかで若槻は折り合うべく何度も交渉を重ねて話を纏めていく下りがかなり生々しく詳細に書かれている。


ところで、この回顧録を読んでいると権力の所在や構造が、それほど単純なものではないことを改めて気づかせてくれる。各プレイヤーの利害と思惑が錯綜し、何かしらの政策や計画も次々と形を変えていくことを迫られる実態から、少なくとも近代史(日本史)のなかでは圧倒的な権力を持つ閉鎖的存在がシンプルにあって、全てを予定調和的に貫けるような構造など存在していなかったのを知ることが可能だ。回顧録は限られた歴史についての若槻の主観的告白ともいえる。それでもこうした本を読み考え学びゆく努力が、現代における進行形の事象に対して、外野から提起されがちな安易な陰謀論や無責任な道徳論からの評論に取り込まれるのを防止する役に立つとも思うのだ。考えに考え抜いた末にシンプルに至る道と、考えることを人に任せてシンプルな結論のみを受け入れる道はまったく別物なはずだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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