温故知新~今も昔も変わりなく~【第93回】 J.S.ミル『自由論』(岩波文庫,1971年)

「自由」をテーマにした議論がなされていくと、いまでもイギリスの哲学者ジョン・スチュワート・ミル(1806~73)が一度は登場してくる。その代表的著作である『自由論』は英語圏などにおいて個人的自由を擁護する古典的名著として扱われている。そのエッセンスは、個人が他人に危害を与えない限り、自らが望むどのような行動も自由であるべきで、政府や権力がそれらを愚行として保護することや多数派の思想を押し付けるなど介入してはならないといったものだ。


日本では教育者・啓蒙思想家の中村正直により明治の早い時期に『自由論』が翻訳されて以来、これまで幾人かの手によって翻訳版が刷られてきている。私が初めてこの本にトライしたのは高校時代であり、きっかけは倫理教師の薦めだった。再び開いたのは大学生になってからで、このときはボールペンで線を引きながらじっくりと読み込んだ。3回目に読んだのは社会人になって数年を経たあたりで、仕事の合間に喫茶店で読んだはずだ。そして、最近何気なく書棚から取り出してパラパラと読み返してみた。初めてトライしたときは難しいがなんだか凄いことが書いているなと思った。再読したときはつよい感動を覚えながら、じっくり考える機会に預かった。3回目に読んだときには2回目の感動が半減していることに気づくとともに違和感もそれなりに沸き起こってきた。最近読み返したときにはミルのいう「自由」のエッセンスに原則同意はできるが、同時にその「自由」が含むリスクについて思いを馳せることが多かった。


ミルという人は、功利主義の創始者とされる哲学者ベンサムが唱えた「最大多数の最大幸福」に象徴される「道徳の最高原理は苦痛に対して快楽のトータルの割合を最大化する」といった思想を別の角度から懸命に擁護した。ミル自身もまた功利主義哲学者として分類されている。ベンサムが苦痛と快楽といったシンプルな基準で功利主義を論ずるのに対して、ミルはもっと個人の自由や個性の擁護に重きを置き、それらに対し、不当に対立し干渉し得るものとして国家、政府、共同体といったものを登場させる。そして、個人が生きていくなかで、その能力を完全かつ自由に開発していくことが最善とし、慣習、因習、伝統、教説などに従うよう強いられるのは間違いだとする。こうした個人の在り方を展開する一文で次のようにいっている。


「・・・単に慣習であるが故に慣習に従うということは、人間独自の天賦である資質のいかなるものをも、自己の裡に育成したり発展させたりはしないのである。知覚、判断、識別する感情、心的活動、さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択を行なうことによってのみ練磨されるのである。何事かをなすにあたって、慣習であるが故にこれをなすという人は、何らの選択をも行なわない。このような人は、最も善きものを識別することにかけても、またそれを欲求することにかけても、全く訓練を得ることがない。知的および道徳的諸能力は、筋肉の力と同様に、使用することによってのみ改善されるのである。これらの諸能力は、単に他人がそれをなすからといって或ることをなすのでは、単に他人がそれを信ずるからといって或ることを信ずる場合と同じように、実際に働かされはしないのである。もしもある意見の根拠がその人自身の理性に照らして争う余地がないというのでなければ、彼がその意見を採用することによって、彼の理性が強化されるなどということはありえないし、かえって弱化される懼れがある」(『自由論』第3章)


『自由論』では、個人が自らの能力を開発するためにも、徹底的な自由な議論と意見発表が常に確保されることが必要だという。それは神学、教義、信仰の領域においてもタブーなく適用され、権威や権力が無謬性を主張し、全体の秩序を考慮するが故に議論を慎むべき領域があるといったことは認めない。ミルのこうした主張について原則同意は可能だ。ただ、私が改めて読み直してミルに違和感を覚えるのは、慣習、因習、伝統、教説が強制されるのはNGであるとしても、それらが持つ価値や意義を捉えることにミルが本当に成功しているかどうかなのだ。


自由な議論でこれらを徹底的に丸裸にしていく作業、則ち理性(論理)を手段として用いていくことで、果たして本当に「善き慣習」と「悪き慣習」の分別などに肉薄し、高貴高潔な選択をできるだろうか。もちろん、ミルは議論に結論を必ず一つ出せねばならないとはいわず、常に大多数の意見に対して異論があることを積極的に許容する。そうした異論こそが将来において大多数の意見が誤謬であったことを明らかにする場合もあるという。ただ、大多数意見、少数意見のいずれもが言葉を駆使することによって生まれてくるが、この言葉で手繰る因果や論理による追求能力をどこまで信頼すればよいのだろう。現代からみて過去は迷妄にまみれているといった偏見や、近代以降の専門知があるが故の視野狭窄からどの程度逃れられているのか、このことが理性ばかりに頼ることに不安を感じさせる。


慣習、因習、伝統、教説に対して、理性を駆使することで完全なる選択の自由を持つ個人というのはどのような存在なのだろうか。これを具体的に想像するのは難しく、慣習、因習、伝統、教説から自由でいられる人間を考えようとするほどに反対の存在が脳裏に浮かび上がる。人間はどこかの国で生まれて、それぞれの国柄、文化、歴史などの影響を受けながら育まれ、そのなかで葛藤、衝突、反発、愛着、シンパシーを入り交えながら生きていくのが現実である。確かに慣習や因習が強いられることもあるし不自由さを思い知ることもあるが、後になって環境が変われば不自由な経験こそが自らを鍛えてくれたと思うこともあるはずだ。不自由に感ずるストレスが存在しないなかで、自由な議論によってのみ個人が常に高貴高潔な選択をしていけるという根拠はあるのだろうか。ミルは個人がときに誘惑から怠惰に陥り選択を間違うことまでは認めるが、それでもやはり個人が持つ理性を高く掲げて信頼している。個人の権利について徹底的な擁護を繰り返す『自由論』は、その最終章の冒頭で次のように述べる。


「以上の諸章において主張された諸原理は、細目に関する議論の基礎として、さらに一般的に認められなければならない。その後に、政治と道徳とのさまざまな部門のすべてに、これらの原理を矛盾なく適用する試みができるようになり何らかの効果も期待しうるであろう・・」(同第5章)


ミルが主張した自由の原理は実現こそしていないが、これが適用されるべきだという。ミルが言うような自由を、人類はこれまでのところ完全な形では経験したことがない。仮に実現したとして、こうした個人で構成される社会はかなり面倒な気もしてしまう。もちろん、根本的に人間性を否定し、人権を容赦なく弾圧するような専制体制が許容されるべきとはまったく思わない。ただ、慣習、因習、伝統、教説が強制されることはNGであるとしても、他方でそれらを深く考えずに素朴かつ無邪気に興じること、信じること、甘んじること、楽しむことを許容せずに、自由な議論の果てにある個人の納得というある種の高潔さばかり重んじる共同体はどこか不自由で息苦しいとも思う。


ミルは他人に危害を加えない限り、政府や権力が介入しない自由の価値を信じた人であり、個人が自由を扱えるはずだと信頼を寄せた。その自由の延長に公民という概念も扱っている。


「・・・これらの諸制度は、実に、公民としての特殊な訓練を与えるものであり、自由な国民の政治教育の実際的な部分をなすものであって、彼らを個人的および家族的利己心の狭い世界から抜け出させ、また彼らを、共同の利益を理解し共同の事務を処理することに慣れさせるものなのである。——すなわち、彼らに公共的な動機または半ば公共的な動機から行動する習慣を与え、また、彼らの一人一人を孤立させるのではなく互いに結合させるような目的に向かって行動する習慣を与えるものなのである。このような習慣と能力がなければ、自由な憲法は運用されることも維持されることもできない・・・」(同第5章)


社会全体のことを考え、そこへ帰結していくミルは確かに功利主義哲学者といえるだろう。ただし、その要求はベンサムよりもある意味で苛烈な高潔さを含むものだ。なお、この『自由論』を最初に翻訳した中村正直は江戸末期に儒学者(昌平坂学問所教授・儒学官)として幕府の禄を食んでいる。慣習、因習、伝統、教説といった要素を多分に含む不自由極まりない儒学を真摯に学んだはずの中村正直が、『自由論』を翻訳したことについてミルがどう思ったかについてはわからない。個人的に私などは中村正直に儒学の素養がなければ『自由論』の価値など掴みようがなかったのではないかとも思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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